2025年10月6日に訪れた駒ケ根市の光前寺の本堂入口には「霊犬早太郎の伝説」と題する掲示板がありました。
【霊犬早太郎の伝説】
今よりおよそ七百年程前、光前寺に早太郎という強い山犬が飼われていました。その頃、遠州(静岡県)見付村では、田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、いけにえとして、神様にささげる人身御供という悲しい習わしがありました。ある年、村を通りかかった旅の坊さまは、神様がそんな悪いことをするはずがない、その正体を見とどけようと、祭りの夜に様子をうかがっていると、大きな怪物が現れ、「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」などと言いながら、娘をさらっていってしまいました。坊さまは早太郎に助けを求めようとすぐ信州へ向かい、光前寺の早太郎をさがし出すと、早太郎を借りて急いで見付村へと帰りました。次の祭りの日には、早太郎が娘の身代わりとなって怪物と戦い、それまで村人を苦しめていた怪物(老ヒヒ)を退治しました。早太郎は傷つきながらも光前寺までたどりつくと、和尚さんに怪物退治を知らせるかのように、声高くほえて息をひきとってしまいました。現在光前寺の本堂の横に、早太郎のお墓がまつられています。また早太郎を借り受けた旅の坊さまは、早太郎の供養にと「大般若経」を写経し光前寺に奉納いたしました。この経本は現在でも、光前寺の寺宝として大切に残されております。
その日、日帰り温泉「露天こぶしの湯」に入浴するには少し時間が早すぎたので、近くにどこか面白いところはないかとGoogleMapで調べたところ、天台宗の古刹、光前寺に行き当たりました。正直なところ、私はそれまで光前寺の名を全く知りませんでした。
前夜の雨の後、柔らかな日差しが参道を彩る秋の昼下がり。光苔の生える石垣に沿って本堂へと歩きました。その神秘的な美しさに私は魅了されました。こんな美しい寺社が存在したとは。正面の木壁の白い掲示板に目が留まりました。本堂は撮影禁止ですが、その掲示板の部分は禁止対象外だったのでスマホに撮影して文字起こししました。
境内には立派な墓も建てられていました。
若い娘を人身御供に差し出すという悍ましさと恐怖。娘の身代わりとして人身御供(犬身御供?)になり、怪物を退治して息絶えた早太郎は、紛れもない英雄です。私の体の芯に静電気が走り、きっと小説化しようと決意しました。
長野旅行から帰宅して「霊犬早太郎 異聞」の小説化に取り組みました。かなりいい感じに仕上がったので、開示可能な限界まで、ここに掲載させていただきます。
人身御供の娘
霊犬早太郎異聞
相武AI 著
序
今から七百年前の遠州見附村。毎年、白羽の矢が一本、娘の居る家の戸口に射たてられる。それは人身御供の娘を指名する矢だった。そして村に重苦しい静寂が広がる。村人の息は浅くなり、土間の音は低くなり、誰も名を呼ばない。
十日後の大祭の夜、その娘は白い衣装を纏って、村のために身を捧げねばならない。それは死に装束、そして花嫁衣裳。
田の水は風を映し、榊の葉の裏の白い筋は眠り、灯は寝て、犬は遠くで一声も上げない。匂いと拍だけが、村のすべてを支えている。恐れは声でなく、息の位置で広がり、祈りもまた、鈴を鳴らさずに続く。
第1章 田の朝、海霧の匂い
夜の冷たさを舌の裏にまだ残しているような薄明の刻、海から上ってきた白い霧が低い畦を這い、藁束の足元にまとわりついて離れない。見附の村はその霧の中で目を覚ます。土間の灰に指先を差し込み、前夜の火種を探る母の手が、淡い赤を見つけて息を吹き、濡れた薪を少しずつ重ね、火が喉をひらいて低く鳴る。釜の底が温まり、やがて湯気が立ちのぼると、湿った藁と煤の匂いに、米の甘い湯気が薄く重なる。鶏の短い声が裏手の柵からこぼれ、井戸の滑車は縄に水の重みを得て、ぎりぎりと一定の音を刻み、桶の縁が井桁に一度軽くぶつかってから、綱の手は滑らかに水を受け渡す。こうして朝が、いつもと同じように組み上がっていく。
この土地に暮らす者たちは、風の機嫌で一日の調子を量る。冬のからっ風が来る前の、いまの季節は海の湿りが多く、霧の日は田に塩の匂いが乗る。塩の道を駆け上がってきた行商の鈴が遠くで鳴り、まだ昼には間のある時刻に、杓子を持った女たちが軒を拭き、麻の繊維を手に当てて撚る。男たちは鍬を肩にかけ、田の水鏡を踏まないよう畦道の草を選びながら歩む。稲の穂先には露がついて柔らかく重たく、手で払えば指に冷たさが絡みつき、払わなければ裾が濡れて冷える。畦の角で子どもが一人、霧の向こうからこちらに向かって風を切るように走るが、母の呼ぶ声に戻り、ひとくち粥を口に押し込み、笑いながらまた畦の先へ消える。日々というものは、こうした些末な動作の連なりでつくられ、大祭の日もまた、その連なりのどこかに紛れ込んでやって来る。
この村では、見附天神の大祭の季節になると、誰もが穏やかな話をするふりをする。塩の値が上がったとか、浜の魚が今年は小さいとか、隣の田で鴨が稲を踏んだとか、どうでもいいほど小さな心配を口にするのが、何か大きなものを避けるための言い訳のように見えることがある。大祭という言葉の奥に別のものが潜んでいると、皆が知っているからだ。白羽の矢のことも、社人の足音も、名主の帳場に置かれる紙片の重さも、誰もが語らないでおくことに慣れている。語らないでおくことは、時に祈りに似ているし、時に怯えの居場所を整えることになる。
井戸端に立つ綾は、桶を両手で抱えると、体の重心をひと足分後ろに残し、きしむ石に足の裏をしっかりあずける。髪はまだ結っておらず、湿りを帯びた黒い束が肩の上に落ち、襟首に霧の冷たさを集める。水面に映った顔は眠りからまだ十分に覚めていないが、目だけははっきりしていて、井戸枠の緑の苔や、蜘蛛の巣に結ばれた細かな水滴の光り方を丁寧に追っている。家の中から母の呼ぶ声がして、綾は返事をし、桶に布をかけて水が跳ねないようにしてから土間へ戻る。その足取りは軽く、しかし踵を鳴らすことはなく、家の柱の節目を避け、習い性となった静けさを守る。綾には幼い弟がひとりいて、今はまだ布団の中で寝息を立てている。弟の顔の輪郭は父に似ており、ときおり寝言のように、見えない鳥の名を呟く。
鍛冶場の火は、村はずれの小さな流れのそばにある。早太は片膝をついて、ふいごの皮の疲れを指の腹で確かめ、裂け目が広がる前に紐を巻き直す。鉄を打つ音が朝には似合わぬほど大きく響くので、まだ村が眠りを引きずっているうちは、火を育てておくだけにしておくのが常だ。火の色の具合で空気の湿りがわかる。今日は霧が深いから、炭はゆっくりと赤くなる。炉の縁に置いた水の鉢に、霧が薄い膜となって集まり、すぐに丸い滴に変わって縁から落ちる。早太はそれを横目に、父から譲り受けた小刀の柄を麻紐で巻き直し、手に馴染むところと少し滑るところの差を指先で覚え直す。客に渡す鍬も包丁も今日は手をつけず、ふいごの音に耳を慣らしながら、表の道を行き来する足音や、行商が鳴らす鈴の音の高さを聞き分ける。村の音は季節で少しずつ変わり、人の気配もまた、大祭が近づくと音の端が固くなる。笑い声が短く切れ、挨拶が少し低くなる。
祭りの日の準備のひとつに、榊の枝を洗って干す仕事がある。社の近くの川辺では、若者たちが裸足になって水に入り、葉先についた泥や小さな虫を指で払い落としている。指の腹が緑のざらつきを覚え、若者たちはそれを交互の手に移し、まるで自分の体の延長のように枝を扱う。岸でそれを受け取る女たちは、風通しの良い場所に並べて置き、葉の向きが揃うように小さな楊枝で整える。葉に残った水が玉になって転がっていくのを目で追っていると、不意に背筋を冷たいものが走ることがある。誰に言われたわけでも、誰かが何をしたわけでもないのに、祭りの支度をすると体のどこかが少し硬くなり、言葉が喉に戻る。それを誰も口にしないのは、口にすれば本当に来てしまう気がするからだ。
綾の家の土間には、古い樽があり、その蓋の木目に沿って指でなぞると、何度も同じ場所が擦れて滑らかになっているのがわかる。母はそこで梅の塩漬けの様子を見て、塩の粒の大きさや梅の皮の張り具合を確かめ、表面に白い膜が出ていないかをじっと見る。こうしたじっと見る時間が、女の仕事には多い。目で測り、指で触れ、鼻で嗅ぎ、耳で確かめ、最後に言葉にするのではなく、体で納得する。綾もそれを覚え始めていて、火が弱ければ鍋のふちに薄い泡が寄るのだと知り、布が湿っていれば手のひらの皮がわずかにひっかかることを知り、家の匂いというものが、米と灰と汗と油の混ざった、自分にとっては安心そのものの香りなのだと、頭でなく鼻で理解している。綾はその匂いを外に持って出ることがある。小さな香袋に白粉ではなく米ぬかを少し詰め、帯の内側に忍ばせる。祭りの支度では白の小袖にそれを合わせることになるが、今日のところはまだ木綿の普段着に、髪を低く結び、家々の前を行き来する人々の顔を見ながら、小さな用事を重ねる。
早太は鍛冶場の裏の水で手を洗い、火の様子を確かめてから、表の道に出る。彼の顔はまだ少年の線を残しているが、頬の下の骨に薄く影が落ち、眉の下の眼が、ものを見る形に整ってきている。歩けば足が音を立てるのを嫌い、かかとを軽く浮かせて、土の柔らかさを踏む場所を選ぶ癖がある。野に出れば獣の気配を拾うために身を低くし、村に戻れば人の気持ちのほうを先に拾う。ある家の戸口に白い布が干されているのを見ると、そこに宿る意味を思わず想像してしまうことがある。蓋をしたい想像であっても、目の端はそれを拾い、心臓に小さな針のようなものを刺す。早太はその針を手で抜くように深く息を吸い、目に見える仕事に体を戻す。壊れた鍬の柄を新しく削り直すために、木を探しに行く支度をする。鍬に合う柄は、木の癖と握る手の癖の両方に馴染むものでなければならないから、どの木が良いかは目ではなく手が決める。手は真実を知っている、と父が言った。父はもういないが、その言葉は残る。
村の真ん中には小さな市が立ち、海からの塩と干魚、山からの木の器や苧麻の束が並ぶ。老いた女が古い話を売るようにして声を張り、若い男が新しい刃物の具合を自慢し、子どもは串に刺した団子に指を伸ばす。名主の使いの若者が通ると、人の流れが自然に道の端に寄る。その若者の腰には紙が差してあり、帳場に持ち帰るのだろう。誰も紙の中身を問わないが、紙がどれほど重いかは、見ただけでわかるような気がする。市の端で、見知らぬ行脚の僧が笠を脱ぎ、水を乞う。誰かが器を差し出し、誰かが塩をひとつまみ添える。僧侶は礼を言い、器を返すときに、笠の影の奥から村の空気を一枚剥がすように見回す。異国の者の目は、村人に自分らの姿を映させる鏡になることがある。そんな鏡はできれば見ないでいたいのだが、見てしまったものは消えない。行商が鳴らす鈴と、僧侶の木鉦の音が重なり、霧の裾がひとつ揺れる。
夕方が近づけば、霧は消え、代わりに薄い風が海のほうから戻ってくる。風が洗った空の色は浅く、水を含んだ木々の葉がやや重たく見え、田の上には、日中に飛び疲れた小さな羽虫がゆっくりと漂う。家々の前で、女たちは子の頬の汗を拭い、男たちは今日の仕事の残りを頭の中で数え合わせ、明日の天気を肩の感覚で占う。社の前の掃き清められた地面には、昼間の膝の跡がまだ柔らかく残り、鳥居の柱には、目に見えないが数え切れないほどの手が触れた温度だけがわずかに残っている。鈴の緒の端にひっかかった蜘蛛の糸が、光の中で薄く輝き、誰もがそれに気づかないふりをして通り過ぎる。
綾は夕方の水を井戸から上げ、桶の縁にかかった薄い水の帯を指でなぞり、母に渡す。母はその水で米をとぎ、米粒が釜の底で擦れる音を聞いてから、音が透明になっていくのを確かめる。音が透明になれば、米が清らかになったという合図だと、母は言う。本当かどうかわからないが、母の言葉には長い時間が積もっていて、綾はその時間に体を委ねる。玄関のほうで、隣の女が声を潜めて何かを言い、母も声を潜めて答え、二人の声はすぐに引っ込み、戸口の影だけが残る。綾はその影の形を見て、影が長く伸びる季節になったことを知る。影というものは、季節の長さを体に教える。
早太は鍛冶場の火を落とし、炭の赤がゆっくりと黒に戻るのを見届けてから、戸を閉める。昼のうちに削った柄木は、手に持つと軽く鳴り、木が乾きの途中であることを伝える。音は小さいが、耳には確かだ。彼はそれを壁に立て掛け、手の平の皮の硬さを自分で訝しむ。少しずつ固くなる手は、打つための手になっていく。打つという動作は、何かを形にするのと同じくらい、何かを断ち切る動きでもある。断ち切るもののなかに、言葉も含まれることがある。言葉はときに、削っても削っても余りが出る。余った言葉は、夜に重くなる。
夜が落ちる前、社の板塀の向こうから、誰かが鈴を短く振る音が聞こえる。風で鳴ったのだろうと誰もが思い、誰かが鳴らしたのだろうと誰もが思う。誰が鳴らしたかわからない音は、村全体の胸に、たった一度、同じ位置に触れる。今夜はよく眠れるだろうか、と誰もが同じ問いを胸に持ちながら、戸を閉める。母は子の枕元に手を置き、父は戸締まりを二度、三度確認する。家々の板戸が夜の湿りを吸い、戸車が低く鳴る。遠くで犬が吠え、もっと遠くで何かが応える。その応えは風かもしれないし、山の木々かもしれない。
綾は寝具の中で横向きになり、布の端を指でつまむ。眠ろうと思えば思うほど、胸の中で小さな鼓が鳴り、耳の奥でそれが自分の名を呼ぶように聞こえる。彼女は呼び声に応えない。応えないで、息の数を数え、次に井戸の水の冷たさを思い出し、昼間に見た蜘蛛の糸の細さを思い出し、鍋の底の泡の色の変わる瞬間をもう一度目でなぞる。そうやって、やっと少しずつ眠りに落ちる。眠りの手前で、白い布の揺らぎが目の裏に浮かび、その布に触れようとしている自分の手が躊躇う。躊躇うのは、布が自分のものではないからだ。彼女は布に触れず、そのまま息をゆっくり吐く。
早太は仰向けに寝て、天井板の節目を数える。節の形がどれも違い、どれも同じように見えるのは、木が一本一本違う生を持ち、同じ風を受けて同じように鳴ったからだろうと、思うでもなく思う。目を閉じると、ふいごの音がどこかで続いているように聞こえ、土間の匂いが鼻に残り、手のひらの皮の硬さが、布に触れても消えない。彼は何かを決める前の人間の体が持つ、小さな震えに自分を馴らそうとしている。決めるということは、たいてい誰かのために行われる。自分のためにだけ決めることは、たぶん少ない。そういうことを言葉にする癖は彼にはないが、体は知っている。体が先に知ることがある。彼はひとつ深く息を吸い、吐き、目を閉じ、眠りの中でどこかの道を歩く。道は霧の中にあり、足元だけがはっきりしている。足元がはっきりしているなら、歩ける、と彼は思う。
村の上に、夜が均一に降りる。海のほうから来た白いものは夜には色を失い、山のほうから来た暗いものは夜には輪郭を溶かす。田の上で蛙が遅い声を一つ鳴らし、川の水は昼と同じ調子で石を撫で、社の前の鈴は風がないのに時折、極めて小さく鳴る。誰もその音を聞いたとは言わないが、誰もがその音を知っている。明日の朝、何がどこに立つのか、誰もが知らない。知らないと言いながら、誰もが知っているような顔をする。そういう夜が、祭りの前にはいつもひとつ、必要になる。
第2章 白羽の矢が立つ
夜の底が薄くほどけて、鶏が最初の声を短く裂いたころ、綾の家の戸口の脇、蔀戸の陰の地面に白いものが一本、まっすぐに立っていた。矢じりが土に刺さり、矢筈のあたりまで白い布で巻かれ、羽根は左右に開いて、まだ霧の細い水を抱いている。矢の白は清めの色として古くから人の目に馴染んでいるはずなのに、朝の薄明の中では、まるで家そのものから血の色を抜き取って矢の側に集めてしまったかのように見えた。誰かが、あるいは異形の物が、夜のうちに来て、灯をともさず、足音も立てずに残していったに違いないが、置いた者の姿を見た者は一人もいない。見た者がいないということが、矢の重さを増す。
最初にそれを見たのは、裏の井戸へ行くために戸口を開けた綾だった。眠りの余熱がまだ肩のあたりに残っていて、外気の冷たさが皮膚にしみ込むのを感じながら、足の指で敷居の段差を確かめ、一歩、二歩と外へ出たところで、視線の端にその白が入った。彼女は足を止め、桶を持つ手に余計な力が入らないよう意識して、矢の前に身を寄せる。白布の巻き方が丁寧で、結び目は裏に隠され、布の端は湿りで重くなって矢柄に沿い、羽根は片方の先がごくわずかに欠けている。欠けた先に溜まる水が小さな球になって震え、落ちようとして落ちず、朝の空にある薄い光を丸く閉じ込めている。綾はその球を見ることで、自分の胸の中の大きなものを直視せずに済ませようとする。見てしまえば声が出るようなものは、できるだけ遠くの形に置き換えて眺めるのが、この村で女が覚える最初の術のひとつだった。
家の中から母が名を呼び、綾は振り向き、返事をする前に一度喉の奥を湿らせる。声がいつも通りの高さで出るように、喉のどこを使えばいいかを体が思い出すのを待ち、いつも通りの「はい」を置く。母は土間の釜を見ており、薪の火を育てながら、外の様子を問う目を娘の顔の動きで読む。綾は一瞬だけ視線を下げ、次に上げ、言葉は選ばず、また選ぶようにして、短く「何でもありません」と言う。母の指が薪を持つ手の上でわずかに止まり、しかし止まったことを誰にも知られたくないという昔からの癖が、すぐに指をまた動かす。綾の弟はまだ布団に顔を埋め、寝息に小さな笛のような音を混ぜる。あどけないその音の高さが、家の中の空気の重さをかろうじて支える細い梁のような役目を果たす。
日が少し高くなるにつれ、井戸へ向かう女たちの足が増える。桶を持つ手はどれも似た筋で、動きはどれも同じ仕事の型に馴染んでいるのに、矢の立っている家の前で一度だけ足が止まり、視線が戸口と矢と空の間を行き来する。その行き来は一呼吸分だけで、女たちはすぐに視線を地面に落として通り過ぎる。誰も声を上げない。声を上げないこと自体が合図のように働き、遠くから来る者にも家の前に何があるかが伝わる。男たちは畦道を通るときに広い歩幅を少し小さくし、鍬の柄を肩から下ろして手に持ち替え、視線を前に固定し、顎をわずかに引く。名主の使いの若者が通り過ぎると、道の両側の人の気配が自然に片方に寄り、その若者の腰に差した紙の端が風に揺れる。
綾の父は、朝のうちに田の水の具合を見に出ていた。畦をいくつか越え、戻る途中で遠くから自分の家の戸口の白を見つける。視力だけではなく、背骨のどこかでそれとわかるものがあるようで、歩く速度が変わる瞬間に、彼は自分の足の重さを自覚する。家の前に立つと、矢は彼の肩の高さより少し低いところで、まっすぐに空を指している。彼は手を伸ばしかけて止める。触れてはならぬものに触れないでいるという行為は、触れるよりも体の力を要する。彼は代わりに、足の親指で地面の土を軽く押し、矢の根元に回った湿りの深さを測る。夜の間にしっかり差し込まれたこと、土が適度に柔らかくて矢じりがまっすぐ入ったこと、誰かがこの家の土の具合を知っていたこと、それらが指の腹に伝わる。家に入る前に一度だけ空を見上げると、雲は薄く、風はほとんどない。風がないのに鳥居の鈴が弱く鳴ったことのある朝の記憶が、彼の背筋のどこかでひやりと動く。
志乃は、釜の湯の泡の大きさを見て、米を研ぐ手を止め、布巾で手を拭きながら戸口に近づく。娘の横顔をいちどだけ確かめ、視線を矢に動かし、またすぐ娘に戻す。志乃は声を持っているが、今日はその声を出すための筋肉が思うように動かない。言えば崩れる言葉と、言わなければ崩れない沈黙のあいだに、彼女の喉は立っている。彼女は深く息を吸い、吐き、井戸のほうへ歩く。水を汲むためにではない。井戸の縁に手を置いて、木の冷たさと苔の柔らかさを掌に受け、井戸をのぞき、底の暗さがいつもと変わらないことを確かめるためだった。底がいつもと同じなら、地の下はまだ動いていない。そう思うことは、何の足しにもならない空慰めかもしれないが、空慰めであっても、手と目と鼻が得る事実で心が持ちこたえるなら、それで十分だと、子を産んで育ててきた年月が彼女に教えている。
矢の噂が村の端から端まで広がるのには長い時間を要しない。塩の俵を運ぶ者の肩越しに言葉が渡り、干魚の匂いの上をひゅうと走り、木鉢の表面で一度、波紋のように広がってから、稲藁を束ねる女の指の間に滑り込み、子どもが拾う小石の重さを一瞬だけ増やす。誰も大声で言わないのに、誰もが知っている。それでも「誰が」「どこに」といった直接の語は避けられ、代わりに「今年は」「とうとう」「そうなった」といった曖昧な形が往来する。曖昧な語を交わすのは、相手の心の形を確かめながら話すための知恵でもある。言葉は真っ直ぐでも刃が立つ時がある。刃を立てない言い回しが相手を守り、自分の明日を守る。
早太は、鍛冶場の前の道に立って、遠くの白を見る。距離があるのでそれが何かを確かめる必要はないが、確かめずにいられるほど彼は若くない。早太は歩を進め、途中で一度、水を汲みに来た女に道を譲り、顔を見て軽く会釈をし、その女の視線が彼の肩越しに向こうの白を避けて脇を向くのを感じる。避けるという行為が、矢の存在を一層、目立たせる。家の前まで来ると、綾が戸口にいて、志乃が井戸のところに立っている。早太は挨拶の言葉を口に乗せかけて、別の言葉に置き換える。何も言わずに頭を下げ、綾の目を見る。綾は頷く。頷くという動作の中に、いくつもの意味が折り畳まれているのが見える。会ってしまえば、言ってしまえば、戻れなくなる。それでも会う。会えば支えになることもある。支えにならないこともある。どちらかを先に言ってしまうと、どちらかしか残らない。二人は、どちらも選ばなかった。
志乃は井戸から戻り、戸口に立つ二人を中へ入れる。土間の片隅に古い長持があり、その上に白布が畳んで置かれている。布は毎年、大祭の季節になると陰干しされ、米のとぎ汁で軽く洗われ、塩を少し振って虫除けにしている。布に触れる志乃の指は、この布が何度も他の家の娘の肩に乗せられたことを覚えていて、その重さが指の腹に映る。布の重さは、布自体の重さだけではない。布が触れてきた肌の汗や涙や油の記憶が、見えない層を作って布に吸い込まれている。志乃はそれでも布を広げ、糸のほつれを探し、わずかなシミを指先で撫で、光の下で透かす。透かした布の向こうに、娘の輪郭が薄く浮かぶ。志乃は目を伏せ、呼吸を整え、布を畳み直す。
名主の家では、帳場に紙が広げられ、社人が二人、座している。言葉は少なく、筆は遅い。筆が遅いのは慎重さの表れでもあるが、遅くすることで何かが軽くなるわけではないことを彼らも知っている。外から来た行脚の僧が門口に立ち、宿の有無を問う。名主は顔を上げ、僧侶の顔の影を見て、大祭の季節に外からの者をどう扱うかの古い手順を思い出す。水と飯は与えるが、内のことは見せない。見せないという内のことは、いつもより多い。僧侶は頷き、笠の縁を指で押さえ、顔の影を深くする。目は何かを測るように静かで、しかし測られるものの側から見れば、何一つ量りたくないものばかりが天秤に上ってくる。
昼の光は白羽の矢の白を明るくし、矢の影を短くする。影が短くなると、矢が地面から抜け出て空に伸びていく力が強まったかのように見え、家の中の物の影は逆に長くなって、土間の隅に柔らかい闇を作る。綾は子どもの頃から見慣れた茶碗の欠けも、土壁の小さな剥がれも、いつもと同じ場所にあるのを目で確かめ、そこにあることが救いのように感じられるのに、矢はひとつだけ、いつもと違うものとして、どこから見ても存在を消さない。彼女は手を動かし、米を洗い、布を干し、弟の髪を撫で、母の指示に頷き、隣の家から借りた器を返し、来客に茶を出し、いつもの動作をひとつずつ体に通していく。動作を通すたび、矢の存在を紙一重のところで避ける技が磨かれる。避けることが上手になればなるほど、避ける対象の輪郭がくっきりする。
早太は鍛冶場に戻り、ふいごの皮に新しい紐を通す。指の節が強くなったせいで、紐を引く力が以前よりも真っ直ぐに伝わるようになり、皮の端の柔らかさが違う角度で指に触れる。彼は炉の火を育てながら、打つべき鉄のことを考えるふりをし、考えないでいられない別のものを、火の色に紛れ込ませる。鍛冶場の戸口に少年がやってきて、折れた鉤先を見せる。早太は少年の手の厚みと、鉤先の疲れ具合を見比べ、明日までに直すと約束する。少年の目は矢のことを知っている目をしており、しかし口はそのことを言わない。口が言わないことが、少年を守る。早太は頷き、少年を見送る。見送った後で、彼は自分の手の平に目を落とし、そこにある小さな傷のひとつひとつの位置と形を確かめる。体の地図は、どこへ行けるかを教える地図でもある。
夕刻が近づくと、綾の家には女たちが少しずつ集まり、支度の相談が始まる。相談という言葉の下には、決まりきった手順がいくつも並んでいて、誰が何をどの順にするかが、声を上げなくても体の動きで決まっていく。志乃は布を広げ、若い女が針山を差し出し、年長の女が折り目を指で抑え、別の女が香袋に米ぬかを足し、また別の女が髪油を小さな盃に移す。誰かが涙を流すと、別の誰かが笑い話をする。笑い話は滑らかには続かず、途中で何度も息を継ぎ、話の筋が薄くなる。それでも笑いが厳密に適所に落ちると、部屋の空気がわずかに緩む。緩んだ空気の片隅で、白羽の矢が戸口に立ち続ける。矢は部屋の中にいないのに、部屋の中の空気を変える。
夜になり、家々の戸が閉じられると、矢は外に取り残され、月のない暗さを背に一人で立つ。風は弱く、羽根の先に乾きが戻り、布の端が軽く動く。誰も見ていないはずの時間に、矢はいっそうまっすぐになる。土の湿りが抜けて、矢じりの周りの土が固まり、翌朝、誰かが抜こうとしても容易には抜けないほどに、矢は土地に馴染む。馴染むという言葉は、人にとっては安らぎの意味を持つが、物にとっては時に、逃げ道を失うことを意味する。
綾は横になり、昼間よりも長い呼吸で夜の空気を体に通す。眼の裏には白いものが浮かぶ。昼間に見た矢の白ではなく、子どもの頃に初めて着せられた小袖の白だった。白は軽く、そして重い。軽いのは布が薄いからで、重いのはそこにいくつもの目がかかるからだ。彼女は小袖の襟の当たる鎖骨の辺りに指を置き、皮膚の下で血がゆっくり動くのを確かめる。動きはまだ落ち着いていて、まだ走ってはいない。走り出してしまうと止めるのが難しいことを、綾は知っている。止める手順も、少し知っている。息を吐き、ゆっくり吸い、目を閉じ、目を開ける前に、心の中で自分の名を呼び、自分でそれに答える。そのやりとりをひとつ、またひとつ繰り返す。
早太もまた、布団の中で天井板の節を数えることをやめ、目を閉じたまま、自分の足の裏の形を思い浮かべる。土が柔らかい場所で足のどの部分から沈むか、板の上ではどの部分が先に音を拾うか、井戸の縁の石はどの角で冷たく、段差の角はどの高さで躓くか。体の地図を更に細かく描き直しながら、彼は眠りの手前に立っている。明日の朝、矢はまだ在る。明日の朝だけではない。大祭が終わるまで、矢は在るべき場所に、在るべき顔で立ち続け、村に在るべき沈黙を強いる。沈黙は人を傷つけるが、同時に人を守る。彼はその相反を、自分の手のひらの上に乗せてみる。軽いとは言えない。しかし、持てないほど重くもない。持つのにふさわしいのは誰か、という問いが、夜の中で形を取り始める。彼はまだ答えない。答えないで、眠りへ降りるための階段を足で探す。階段は暗がりにあり、段差は高くも低くもなく、足を上げれば自然に次の段に届く。届いた先に何があるかは、見えない。見えないから、今は足の上げ下ろしだけに集中する。こうして夜が、二人の上に降り、白羽の矢は戸口の外で、見張りの番のように立ち続ける。
第3章 娘の髪を梳く
朝の光が土間の敷瓦を浅く撫で、竈の火が安定した熱の息を吐き始めるころ、志乃は長持の脇に置いてある小さな木箱を取り出し、蓋をそっと開ける。箱の中には古い櫛と笄、細い紅の紐、端がすこし黒ずんだ白い布、香袋が一つ、椿油の小瓶が一本、古びた紙に包まれた米ぬかが少し、それから、娘が幼い頃に髪を束ねるために使った小さな銀の輪が、色をくすませて眠っている。志乃はまず櫛を手にとる。黄楊の櫛は歯の一本一本が微かに欠け、指先に触れると小さな波を撫でるような感触がある。幾度となく髪に通し、汗や油や涙や香を受け取ってきた道具は、ただの物ではなくなっている。志乃は櫛の歯に布を巻き、椿油をほんの少しだけ落として、布で拭い、余分な油が残らないように丁寧に馴染ませる。
志乃が綾を呼ぶ声は強くない。強くしないように、喉の奥で息を加減する。綾は座敷の敷物を手早く整えると、母のそばに膝を揃えて座る。背をまっすぐに、あごを引き、膝の上に手を重ね、指を軽く組む。こうした座り方は、単に形の問題ではなく、呼吸を落ち着かせる手順であることを綾は知っている。背が伸びれば肺がよく動き、喉の奥が開き、目に入るものが少し遠くまで届く。届いたものに心が揺れそうになれば、組んだ指先をほんのわずかに強く握り、現実に戻る。
志乃は娘の後ろに回り、髪をほどく。普段は低い位置で一つに結んでいる黒い髪は、霧と井戸の冷たさを少し含んで重く、手の中で静かにまとまる。志乃は指の腹で頭皮を軽く押し、頭の丸みを確かめながら、櫛を通す場所を選ぶ。櫛の歯が髪の間を進むと、乾いた小さな音が続けて生まれ、木と髪が擦れる匂いが立ち上がる。油はほんの薄く、櫛の動きに合わせて髪の一本一本に光を置いていく。綾は目を閉じる。閉じた目に浮かぶのは、自分の目の前に置かれた磨きの鈍い銅鏡ではなく、外の井戸の水面で見たゆらめく顔で、そこに母の指の動きがすべり込み、記憶の面と現実の感触がゆっくり重なっていく。
「引っ張るように見えて、引っ張らないことが大事だよ」と志乃は静かに言う。「髪には髪の通り道があるから、道に従えば痛くない。道をねじれば痛いし、先に切れてしまう」
綾は小さく頷く。痛みを避けるために、痛みの元を見定め、そこを通らないようにする。言葉にすればたったそれだけのことだが、日々のなかでは、それが何より難しい。志乃の手は、幼い綾の髪に櫛を入れたころの動きをまだ覚えている。眠りから目を覚ましたばかりの娘を膝に乗せ、頭の匂いを嗅ぎ、櫛の歯を通し、引っかかったところで手を止め、指を入れてほどく。その繰り返しで、母と娘は朝を分け合ってきた。今、その同じ動きが、別の意味を帯びて戻ってくる。志乃は、櫛の今の重さの中に、見知らぬ家の娘たちの髪の重みも混じっていることを思う。布や櫛は村を巡り、家々の女の手を経て儀礼をかたちづくる。道具には道具の記憶が宿り、人の手はその記憶を手のひらで読む。
「鏡を見るかい」と志乃が問う。綾は首を軽く振る。鏡を見ると、目が鏡のほうの目になる。鏡の目は、自分の顔の表面に行き、もどってこられないことがある。今は、自分の顔よりも、母の手の温度や櫛の歯の感触のほうに身を置いていたかった。志乃もそれをわかっていて、鏡は蓋をしたまま、そばに置かれた小さな足箱の上に置いておく。
外では、誰かが戸を叩き、声を潜めて挨拶をし、志乃が返事を返す。近所の女が二人、縁側に腰をかけている。様子を見に来たのだろう。志乃が「今、髪」と言うと、二人は気配を小さくし、縁側で手を動かす音だけがかすかに届く。布の端を折る音、糸を引く音、器の蓋が木の縁にあたる音。女たちの仕事の音は時に祈りの音にもなる。祈りという言葉を使わずに、指先と道具の柄で神に触れる手順が、今朝は家のあちこちで動いている。
綾の髪は長く梳かれ、油を含み、束ねられる準備が整っていく。志乃は髪の根元に指を差し入れ、頭皮の温度を確かめ、冠の位置を仮に置き、結び目が首の骨に触れて痛くならないよう、髪の重みを受ける位置を探る。結わえる紐は紅で、鮮やかでありながら深く、光を吸い込むような色をしている。紅は血の色に連なり、祝いにも弔いにも使われる。志乃は紐の一端を歯に軽く挟み、結び目をつくり、余りを丁寧に折り込み、髪の表面に乱れがないかを掌で撫でて確かめる。掌の皮膚の線に髪の細い振動が触れ、その振動が腕を通って胸に届く。母の胸の中で、その振動は短い波を一つ、二つ立てる。
「痛くないかい」と志乃が尋ねる。綾は「大丈夫」と答える。大丈夫という言葉は、口の中でひとつまとまりになって出て行き、空気に触れてこぼれ落ちるように聞こえ、自分の耳には、少し違う重さで戻ってくる。志乃はその戻った重さを拾い上げ、重さのままに手の力を調える。綾の耳の後ろに、香袋を小さく結びつける。香は強くない。米ぬかのやわらかい匂いに椿の油が薄く重なる程度で、家の匂いがそのまま外へ持ち出されるようにしてある。見知らぬ香りは不安を呼び、馴染みの匂いは体の輪郭を守る。
髪が整い、志乃は白い布を持ってきて、肩にふわりと乗せる。布は軽いが、空気を含んでひやりとし、襟骨の上で薄い音を立てる。綾は指先で布の端をつまみ、その滑りを確かめる。布は従順だが、指が硬ければすぐに皺が立つ。布の従順さは、扱う側の心で変わる。志乃は布をいったん外し、畳み直し、小さく頷いて別の布を取り出す。今朝はまだ決定の布ではない。決定の布を出すのは、もっと先でいい、と志乃は決めている。決めることを先にしてしまうと、戻れない。戻れないには戻れないなりの勇気が要るが、今はまだ、準備の時間に体を置いておきたい。
綾は母の指の動きを見ながら、ほんの少し笑う。笑いは声にしない。唇の端が、油を含んだ髪の香に触れて、その香りが笑いの中に紛れ込む。志乃はその笑いを見て、視線をいっとき柔らかくする。「覚えているかい」と志乃は言う。「初めて髪を結った日のことを。櫛が重くて、お前が泣きそうな顔をして、でも泣かないようにと上を見て、まぶたまで真っ白になっていた」
綾は頷く。記憶は曖昧だが、母の声の中の温度が、記憶の輪郭を少し濃くする。あの日は、門付けの唄が遠くから聞こえ、井戸の水がいつもよりも冷たく、家の中のものがすべて新しく見えた気がした。髪というものが自分の体の一部でありながら、別の重さを持つことを知り、母の指がその重さを半分持ってくれるということを、頭の皮膚で理解した。今朝もまた、その半分を持ってもらっている。
縁側のほうから、近所の女のひとりが声をかける。「帯の紐、持ってきたよ」と言い、紐の端に小さな房が結ばれているのを見せる。房の糸は白く、まっすぐで、指で触るときしりと鳴る。志乃は礼を言い、紐を受け取り、房の状態を指先で確かめる。糸がほどけないように、房の根元に細い糸を重ね巻きにしておくのがよい。こうした細工は、手を動かすほどに落ち着きが戻る仕事で、女たちはそういう仕事を互いに分け合うことで、自分の心の中の揺れを小さく切り分けて外に置く。
綾の弟が目を覚まし、母の腰に抱きつく。志乃は片方の手で弟の頭を撫で、もう片方の手で綾の髪を押さえる。この二つの動きを同時に行うことに、彼女の暮らしのすべてが映る。守りたいものは一つではない。守りたいものが二つ、三つと増えるごとに、指の動きは細かく、視線は短く動く。短く動く視線が、やがて長い見通しに変わることもある。今はまだ、短く動かし続ける。
戸口の外で、人の気配がいくつか交錯する。名主の使いの若者が通り、社人の草履の乾いた音が石を踏み、誰かが小さく咳をし、誰かがそれを受けて咳払いをし、すべてがすぐに遠ざかる。矢は変わらず白い。白さは日に当たって少し眩しく、羽根の縁に乾きが戻り、布の端に硬さが出る。その硬さが、かえって白の領分をはっきりさせ、家の影は白を避けるように伸びる。避けることが続けば、避けているものの存在は濃くなる。濃くなればなるほど、誰もがそこを見ないようにする。
志乃は綾の髪を結い終え、綾の肩に薄い布を乗せ、帯の紐を軽く腹の上に回し、結び目の形だけを指で作る。形を体に覚えさせておくと、本番のときに体が戸惑わない。体は学ぶ。言われたことよりも、繰り返した動きのほうをよく覚える。綾は帯がみぞおちにかかる感覚を確かめ、息の入れ方を調える。深く吸えば布が当たる。浅くしても苦しくない深さを探す。息が上がると声が高くなる。それもまた、誰かの前での自分の振る舞いを決める要素になる。
「水を持ってきて」と志乃が言い、綾は立ち上がって井戸へ向かう。表へ出ると、光が身体にまとわりついた布の白を増幅し、視界の端で矢が大きくなる。矢は何もしない。矢はただそこにある。それでも、そこにあることだけで、人の歩幅や声の高さや手の動きを変える力を持っている。綾は桶を持ち、滑車のぎりぎりという音に耳を澄ませ、水の重みを腕に受け、膝の力でそれを支え、井戸の縁に一度置き、布で口を覆って水を運ぶ。戸口へ戻るまでの短い距離の間に、人に見られている気配が背に重く乗る。見られている者がどのように動くかは、見ている者の心をも形づくる。綾はいつもより、ほんの少しだけ歩幅を小さくする。小さくしたことに、自分だけが気づく。その小さな差が、今日という日の輪郭をつくる。
水を受け取った志乃は、釜の火の様子を見て、米の研ぎ加減を耳で確かめ、湯気の立ち方で塩梅を読む。家の中のあらゆるものが平常を装い、その装いの中に微細な違いが隠れている。微細な違いを見つけるのは、敵意ではなく、生き延びるための技術で、今日は誰もがその技術をいつもよりよく働かせている。
昼を過ぎ、縁側の女たちはいったん引き上げ、家には静けさが戻る。戻る静けさは、朝の静けさとは違い、いくつかの音を意図的に欠いた静けさだ。誰かがわざと音を立てない、という形で成り立っている静けさ。綾は母と向かい合って座り、両手を膝に置き、目を伏せ、呼吸を数える。「怖いかい」と志乃が問う。綾は答えない。答えないことで、答えになるような時間がある。志乃はそれでよいと思う。言葉で固めれば崩れるものが、世の中には確かにある。固めないで、手で支え、息で温め、目で見守る。そういう支え方が、今日のところは必要だ。
「髪は、どんなときにもほどけるから」と志乃は言う。「ほどけることを前提に結んでおく。ほどけるときに痛くないように、余裕を残しておく。ぎりぎりに締めると、息ができなくなる。息ができなくなると、声が出なくなる。声が出なくなると、誰かに呼ばれても返事ができない。返事ができないと、誰かは来ない。だから、結ぶときには、ほどける道を用意しておく」
綾は頷き、母の言葉を一つずつ体に通す。結ぶこととほどくことはいつも対になっていて、結ぶことだけを学ぶと、ほどくときに痛む。ほどくことだけを考えると、結ぶべきときに結べない。今は結ぶべきときであり、ほどくべきときが来るかどうかは、今はわからない。わからないことの前で、人は呼吸を整えることしかできない。それでも整えた呼吸は、体のどこかに残る。
夕方、早太が戸口に立った。土の上で音を立てないように、足の置き場所を選んでいる気配がする。志乃は内から声をかけ、早太は頭を下げて敷居の手前に立つ。挨拶の言葉は短く、目は長く、綾の髪に一瞬だけ留まり、すぐに外の光に戻る。彼は折れた鉤先を直したといって、小さな布包みを差し出す。志乃は受け取り、礼を言い、包みの重さを掌で確かめる。その重さは、彼がここへ来るまでに踏んだ土の数と、ここから帰っていくときに踏む土の数を思わせる。志乃は彼を中に招かない。招かないのは拒むからではなく、いまの家の空気を守るためだ。早太はそれを理解し、言葉少なに頭を下げ、去る。去る背中に、綾の視線が短く触れる。触れた視線は、彼の肩の後ろで小さく弾み、地面に落ちて、見えなくなる。
夜の手前、志乃はまた櫛を手に取り、綾の髪をほどき、もう一度梳く。梳くことは、髪を整えるだけではなく、日中に体と心に溜まった細かな砂や塵や、目に見えないざわめきを櫛の歯に移す働きがある。櫛に移されたものは布で拭き取られ、油に馴染む。布は洗われ、日に干され、また箱に戻る。その循環が、家の秩序になる。志乃は櫛を動かしながら、娘の肩越しに土間の暗がりを見る。暗がりはいつもと同じ形をしているが、その向こうに続く路地は、明日の朝にはまた違う顔を持つだろう。違う顔を前にしても、髪は梳かれ、結ばれ、ほどかれる。女の一生は、その繰り返しでできている。繰り返しは救いでもあり、牢でもある。どちらであるかは、その日の手の温度が決める。
外で鈴の音がひとつ、微かに鳴る。風かもしれず、誰かの手かもしれない。誰かの手であっても、誰の手であるかは問われず、音だけが家々の軒をかすめていく。綾は目を閉じ、母の手の重みを頭の皮膚で受け、息を合わせる。志乃は息を合わせ、櫛の歯を静かに進める。櫛の歯の先で、夜が少しずつ滑らかになり、布団の上に広がる前に、母と娘はもう一度だけ目を合わせる。合わされた目は、言葉を必要としない。言葉は明日のために取っておく。今夜は、髪の通り道だけを、確かにしておけばいい。
第4章 早太の胸の軋み
鍛冶場の屋根に夜露が残っていて、朝日がそれをほどいたばかりのころ、早太は火の前に座り、自分の膝の骨が石の床の硬さにどう触れているのかを確かめていた。ふいごに手をかけて皮の伸びを読む。伸びが均一であれば、火は素直に息を吸い込み、炉の口の赤はきちんと中心に深く沈む。今日は霧が上がるのが遅かったせいか、火は生まれつきの気の弱さを見せ、呼ばなければすぐに喉を閉じる。呼び続けるのは難しくないが、呼び続ける相手が火であるのと、相手が人であるのとでは、体のどこを使うかが違う。火は息で応え、人は目で応える。応えないとき、どちらも厄介になる。
白羽の矢を見た朝、鍛冶場に戻ったとき、早太の胸の中心に入ってきたものは、重さではなく硬さだった。重さなら、肩や背中にうまく分ければ持ち歩ける。硬さは体の内側で角を作り、肋骨のどこかに当たり続ける。息を吸っても吐いても、その角は微妙に位置を変えて刺さり、動くたびに存在を主張する。彼はその角を手で触れられないことがもどかしく、手で触れられるものを探そうとして、炉の脇に束ねてあった鉄片をひとつ、指で確かめる。指先が拾う冷たさは素直で、角の形ははっきりしており、角の端が丸くなりかけているのもわかる。打つ前の鉄の黙りは、返事を待っている者の黙りに似ている。黙っているからこそ、こちらが先に言い出さなければならない。言い出した言葉に、火は色で返事をする。
ふいごを踏むと、炉の中で赤が深くなり、鉄が音を変える。金属の音は湿りを吸い、朝の霧の名残をなだめるように鈍く広がる。小刀の刃先を試しに当てると、火の匂いと鉄の匂いが混ざって鼻の奥で細く鳴る。刃を砥石に当てるのは、いつも通りの動作として体に染みついているが、今日は石の面から伝わってくる細かな震えの粒が、いつもより粗いように感じられる。集中が乱れているのだと気づき、彼は砥石から刃を離し、水に浸した布で額を拭く。布の湿りが皮膚を滑り、角ばったものの輪郭をひととき曇らせる。曇りはすぐに引き、角はまた戻る。戻るなら、正面から相手をするしかない。
鍛冶場の戸口に、藁草履の音がひとつ止まり、老人が折れた鋤を抱えて立つ。木柄の付け根が割れ、鉄に近いところでひびが入っている。老人の手の皮は長い年月で乾き、指の節は太く、掌の皺は深い。早太は鋤を受け取り、割れの角度と木の癖を見て、「ここ」と言って指先でなぞる。老人が頷き、代金の相談をしかけたとき、老人の視線が早太の肩越しに何かを避けるように滑る。避けられたものが何かは言わなくても分かる。その視線の動きひとつに、村の朝から晩までが収められていることがある。老人は言葉を細くして、明日には田に出たいのだと告げる。早太は明日までに仕上げると答え、受けた鋤の重さを片手から両手へ移し替える。移し替える動作の中で、なにか別のものの重さが自分の中で位置を変えるのを、彼ははっきり感じる。
仕事に使う木を探すために、午前のうちに里山の縁へ出た。空は薄い青に戻り、霧は日差しの中で解け、湿りのある土は足の裏にやさしく纏わりつく。道の脇に榊が並び、洗われたばかりの葉が陽に亮り、葉脈の一本一本が透ける。若い衆の一人が結び目を整え、もう一人が枝の向きを揃え、肩と肩の間の距離がいつもより僅かに広い。人が自分の体を守るために無意識に取る距離というものがあり、大祭の季節にはその距離が少しずつ変化する。変化は目では捉えにくいが、体は拾う。体が先に拾い、頭があとで気づく。気づいたときには、もう手遅れということもある。
川の近くで、綾の姿を見つけた。手には濡らした布と小さな籠。洗い物を干す場所を選んでいるらしく、綱にかける前に布の端を指で挟み、力を均等にかける。彼女は目線を下げて仕事の水に集中しており、早太の気配に気づくのは、彼が一歩踏みしめる音を意識的に立ててからだった。彼はわざと草の上ではなく、石の上に足を置いた。石は乾いており、靴底と石が触れる澄んだ音が一度だけ空に出る。綾は顔を上げ、早太を見る。どちらも先に笑わないし、言葉を急がない。綾が「おはよう」と言い、早太が「おはよう」と返す。その二文字の往復に、子どもの頃からの癖が残り、癖の中に今の重さが紛れ込む。
早太は、なにか助けになりそうな言葉を探しながら、一番上の枝にかけられた布の角を持ち上げ、綱の向きを直した。綱は少し撚りが甘く、重い布を掛け続けるには時間の中で伸びてしまう。彼は癖で、綱の撚り目を指で撫で、結び目の位置を少しだけ変える。綾がそれを見て、ありがとうと言う。ありがとうという言葉は、たいてい、ことば通りの意味と、ことばにならない意味を二重に持つ。彼は頷き、ふいに、山に逃げるならどの道を取るべきか、頭の片隅に浮かびかけた。峠の途中に水の出る岩があり、そこなら一晩の喉はしのげる。洞のある大きな楠も、根元に隠れられるかもしれない。だが次の瞬間には、その考え自体が甘いと自らに告げる。一緒に逃げるという選択肢は、自分と綾を守るためであっても、村を守ることにはならない。逃げ切れたとしても、「今年は逃げられた」という噂だけが残り、来年には別の家の戸口に白が立つ。逃げ道の先にあるのは、広い世界ではなく、狭い追われ道だと、山の地理が彼に教える。
綾が布の端を籠に戻し、少しだけ顔を上に向けた。「今日は鍛冶場は忙しいの」と尋ねる。早太は「いつも通りだ」と答える。いつも通りという言葉は、この朝には嘘に聞こえるが、嘘をつくためではなく、体を保つために必要な言い回しだった。綾は頷き、指先についた水を地面に振り落とす。指から飛ぶ水が陽にきらめく一瞬、彼女の表情から力が抜ける。その抜け方を見て、早太の胸の中の角ばったものが、いっそうはっきりした形を取る。形がはっきりすれば、相手ができる。形が曖昧なものほど、対処が難しい。
里山の斜面で、早太は柄に向く木をいくつか探した。手斧で枝を払い、芯の通った若木を選び、手に当てる。目前の仕事をこなすことは、頭の中にある角をいったん遠くに置くための方法でもあり、体に重心を戻すための手順でもある。選んだ木を肩に担ぎ、筋肉に荷の重さを分け、その分け方が適切かどうかを歩幅で測る。こうして体の中の強いところと弱いところを均していくのは、道具を長持ちさせるのと同じことだ。鍛冶場の戸口に戻るまでの間、今は何をするべきかを早太は繰り返し自問し、自問するうちに「何もしようがない」という言葉が一度喉に上ってくる。それをそのまま飲み込まないのは、飲み込めば心臓のすぐ上で固くなってしまうからだ。固いものはひとつで十分だ。ふたつもいらない。
昼頃、名主の使いが鍛冶場に顔を出し、だまって頭を下げていった。挨拶の代わりに、腰に差した紙の端が目に入る。「畑の水門の釘が抜けかけている」と短く言い、夕方までに何本か用意できるかと問う。早太はうなずき、太さと長さを反射のように頭の中で決め、火を起こし直す。釘を打つ音は、刃物を打つのに比べて高く短い。高い短い音は、胸の内側で鳴る鼓の音に似る。似ているからこそ、嫌でも耳に届く。火の前で鉄を摘み、打ち、摘み直し、打つ。打った鉄が並ぶ。並んだ鉄は、理由もなく美しい。それを見るとき、人は息を整えることができる。整えた息は、自分だけでなく、周りの人間にも移る。呼吸は移る。恐れもまた、移る。
午後、鍛冶場に幼い子がやってきて、刃のない木剣を握りしめ、目を丸くして火を眺める。母親が後ろから手を伸ばして子の肩を掴み、「熱いから離れな」と言う。母親の声はどこか上ずっていて、鍛冶場の火よりも別の何かを怖れている調子が混ざる。早太は笑って、火の危ないところと安全なところを指で示し、木剣の握りの位置を直してやる。子の手が軽く、木の重さを持ち上げるだけで満足する年頃だ。子は「おれも大きくなったら鉄を打つ」と言い、母親は「鉄は逃げないけれど、風は逃げる」と返す。意味がすぐには分からない言葉だが、子どもは頷き、木剣を振り、音を出す。音が出ると、子どもは笑う。笑いは薄く、すぐに引っ込む。それでも笑いの筋肉が一度でも動けば、顔は少し若くなる。若くなる顔を見ることは、村の誰にとっても救いだ。
日が傾き始めると、鍛冶場の影が長く伸びる。炉の火を細くし、ふいごの皮に湿りを戻し、道具の位置を整える。鉄の粉が床に落ちたままだと、夜に冷えて白く見える。白は今の時期には目に入りすぎるので、彼は水を含ませた箒で粉を集め、土間の隅に寄せる。寄せるという行為は、手の中の乱れを外へ移すのと似ている。乱れは外に出したところで消えるわけではないが、位置が変われば、対処の仕方も変わる。
家へ戻る道、早太は社の脇を通る。鳥居の柱に手をかける者はおらず、鈴も鳴らない。地面は掃き清められていて、昼間の膝跡は薄くなっているが、地の内側に沈んだ跡は消えない。社の奥の木立の暗さに向かって、一瞬だけ足が止まる。暗さを覗き込むのではなく、暗さの中からこちらを覗いている何かを感じるために、耳を空にする。耳は何も拾わない。しかし、拾わないことが逆に、拾っていることの証になるときがある。音がない、という音がある。無音の張り詰めは、人を無力にする。無力は、素直に認めるほうが動けるときがある。認められないとき、人は固まる。
戸口に戻ると、母が縁側に座っている。手には布と小さな針。縁に座る足は土に届かず、靴下の踵に薄い土の粉がついている。母は顔を上げ、早太の顔に長く目を置かず、目の端で彼を包む。言葉は使わず、針に糸を通し、指の腹で糸の毛羽立ちを撫で落とす。糸は細く、毛羽立ちは簡単に消えない。消えない毛羽立ちをなだめる手つきに、長い年月がしみ込んでいる。早太は母の横に腰を下ろし、しばらく針の動きを見ている。母がやがて口を開き、「白矢は……」とだけ言う。それ以上は続けない。続けるとすればいくらでも続けられる言葉だが、続ければ言葉が自分を傷つけることを母は知っている。早太は頷く。「見た」と短く答える。母は手を止めず、「あの家の人は善い人だ」と言う。善い人だから、と続けようとして、続けない。善い人という言葉は、救いにも刃にもなる。どちらに転ぶかは、受け取り手の心の形にかかっている。今はどちらにも転ばないよう、つま先立ちで話す。
夜になり、湯気の立つ椀を持つ手が、いつもよりわずかに震える。汁の塩気は控えめで、喉を通ると胸の角がそこだけ滑らかになる感覚がある。その滑らかさがすぐに消えることは分かっているが、短い滑りでも、人はそれに救われる。床に入る前、早太は小刀を取り出し、砥石の上で一度だけ刃を滑らせる。刃はもともとよく立っており、一度の滑りでは何も変わらない。それでも滑らせる。体は手順を求めるからだ。手順は、心が暴れるのを遅らせる。
寝返りを打ったとき、胸の奥で何かが軋む。木戸の蝶番が乾いたときの音に似た感覚が、内側で鳴る。鳴る場所は一定ではなく、肋骨の右のほうだったり、中心に寄ったり、背中のほうに回ったりする。きしみは音ではなく、振動の記憶のようなもので、彼はそのたびに呼吸を整える。呼吸を整えると、きしみは静かになるが、終わらない。終わらないなら、付き合い方を覚える。付き合う相手が誰かも、まだはっきりしないうちに。天井の節目は昼間に数えたときと同じ数だけそこにあり、木の目は夜にも同じ筋を見せる。世界は多くのところで同じように続きながら、一箇所だけ容赦のない角を持って現れる。角は誰かが削るまで、そこにある。削れるかどうかは、まだ分からない。削るための刃は、まだ手の中にある。刃は軽い。軽いものが、重いものに勝つこともある。それを信じるのは簡単ではないが、難しいとも言い切れない。言い切らないで、彼は目を閉じる。閉じたまま、胸のきしみと同じ高さで、心のどこかが少しずつ固まっていくのを感じる。固まるものが傷にならず、芯になることを願いながら、眠りの浅瀬に体を浮かべる。
第5章 旅の僧、村に入る
塩の道をたどってくる者の足取りは、海に近い土地ではどこか湿りを帯びるものだが、この僧侶は、湿りを嫌がるでもなく、好むでもなく、ただそれを足に請け負わせて歩いてきた。笠の縁は淡く潮を吸い、袈裟の裾は朝霧の細かい針をいくつか受けて重くなり、錫杖の環は鳴らすでもなく、風の流れにあわせて自ずと小さく触れ合い、薄い鈴のような音を置いていく。昼の手前の光が、道の砂の粒に当たる角度で白くなり、遠くの畦の稜線は柔らかくぼけ、鳥の影だけがくっきりとして田の上を横切る。僧侶はその影の数を数えない。数えないで、影の滑る速さのほうを体で受け取る。速さは風の具合を教え、風の具合は人の心の固さに似る。
村の入口にさしかかると、小さな地蔵が並ぶ場所があり、誰かが今朝置いたらしい新しい榊の葉が一枚、地蔵の足元に斜めに寄っている。葉の先に溜まった水が光り、地蔵の顔の片方の頬に湿りの筋ができているように見える。僧侶は笠を少し持ち上げ、地蔵の顔をまっすぐに見て、短く礼をし、笠を戻す。笠の縁の影が深くなり、目の中に村の手前の道の色が薄く入ってくる。道の脇では、子が二人、小石を指ですくっては土に並べ、並べた列のどれが長いかと言い合っている。僧侶の足音に気づいて一度こちらを見るが、すぐまた小石に戻る。戻り方の速さで、この村が外から来る者をどう扱うかの癖がうっすらと見える。珍しがらず、恐れすぎず、しかし内を見せない。
最初に水を乞うたのは、市の端の屋台で、干物を並べていた女の前だった。僧侶は笠を軽く押さえ、渇きの礼を述べ、器を持つ手を低く差し出す。女は水を汲んで手渡し、塩をひとつまみ添える。僧侶は塩を舌にのせてから水を含み、喉の内側を塩で目覚めさせる。塩の粒が舌の上で溶ける速さが、今日の空気の湿りを教える。女は僧侶の袈裟の縁を見、笠の影の奥にある目の動かし方を見、言葉を選ぶ。「旅のお坊さま、今は見附天神の大祭の支度の折でございます。お宿は、お宮の外に小屋がございますから、名主さまにお声をかけられますとよろしいでしょう」と、言い馴れた手順を伝える口ぶりで、しかし言葉の端にかすかな緊張の糸が残る。僧侶は礼を言い、器を返し、名主の家の方角を尋ねる。女は顎で示し、表の道から一本入ったところだと教える。
名主の家の前で僧侶は立ち止まり、戸口の脇の空気が他の家とわずかに違うことに気づく。立つ人の気配がなくても、戸の内側で誰かが紙の上に筆を置くときの肌の緊張が、木の板を通して外へ染み出すことがある。僧侶は錫杖の環を静かに押さえ、木口を軽く叩く。中から若い男が出てきて、外からの者を迎える言葉を整え、僧侶の笠と袈裟を目で量る。僧侶は挨拶をし、水と飯の礼を述べ、宿があれば借りたい旨を伝える。若い男はうなずき、名主の手前であることを告げ、僧侶を奥へ通す。奥といっても広い場所ではなく、板の間に帳場がひとつ、窓の近くに低い机がひとつ、座布団が二枚、筆立てと砂皿、紙の束があって、光は控えめに差し込む。
名主は年の頃五十に近いか、顔の色は野の仕事をする者の焼けて引き締まった色であり、しかし目の奥に書き付け仕事の疲れが薄く滲む。僧侶は笠をとり、頭を下げ、名主は座るように手で示す。僧侶が座に落ち着くまで、名主は急がず、相手の動作の間をよく見ている。見ている者同士は、容易に言葉を早めない。名主がまず口を開く。「大祭の時節においでなさった。水と飯はお出ししましょう。ただし、村の内のことは、余計にお目に入れられぬ手前がございます。お分かりいただけるか」 僧侶はうなずく。「人の家の中のことは、外の者が見て軽く言えることではございません。ただ、私のほうにも務めがありまして、祈りをもって人の心を軽くし、迷いがあれば灯りを置く、それだけはお許しがいただければ」 名主は「祈りは嫌う者はおりません」と言い、しかし言葉をそこで止めず、「ただ、祈りが外から来て内を乱すことがあると困る。その見極めは難しい」と、静かに続ける。僧侶は頷き、笠の縁に指を置き、軽く押さえる。「乱さぬ祈りを心がけます。夜になりましたら、社の前で、ひとつ読ませていただければ」 名主は短く考え、社人の顔を思い浮かべるように目を少し斜めに外す。「社人に一声かけましょう。鳥居の外ならば、問題はありますまい」と答える。
その間に、僧侶の目は帳場の紙の白さと筆の先の黒に、村の沈黙の形を見て取る。白羽の矢のことは、誰も名を口にしない。しかし、白いものが村の戸口に一本立つと、村の内側の白いものはどれも少しだけ重くなる。紙は重くなり、布は重くなり、塩は重くなる。重くなるものは、持ち上げると腕に真っ直ぐに来る。僧侶は何度も旅の中で、似た重さに出会ってきた。飢えの年に、誰かが何かのせいだと言い出すための白。病の年に、誰かが誰かを外に置くための白。白は清めであり、断ち切りの符でもある。僧侶の師はかつて言った。「神は人を貪らぬ。貪るのは恐れだ。恐れは形を欲しがる」——その言葉は耳に残っているが、耳に残っているものをそのまま口に出すわけにはいかない。言葉は土地で響きを変える。響きの変わり方を知らない者の言葉は、善い意であっても石になることがある。
名主の家を辞し、僧侶は社のほうへ足を向ける。鳥居の前の地面は掃き清められ、榊の新しい葉が風のない空気の中でもわずかに息をしている。鈴の緒は結ばれ、風がほとんどないのに、どこから来たのか分からない薄い流れに触れてごく短く動く。鳥居の柱の木目は長い年月の筋を見せ、手の触れた場所は油で光る。僧侶は柱に触れない。触れないかわりに、土のわずかな起伏に目を置き、足跡の新しさと古さ、重さと軽さを読む。女の足の跡は小さく、子どもの足の跡は跳ねるように間が不規則で、男の足の跡は踵が深い。ところどころにある、揃えようとして揃わない跡は、祭りの支度の手の忙しさが運んだものだろう。鳥居の横の小屋に住む社人に挨拶をし、名主の言伝に従って今夜、鳥居の外で祈りをひとつ読ませていただきたいと告げる。社人は僧侶の顔を見る。見るというより、僧侶の背丈と足の骨格と、歩いてきた道の土が裾にどれだけ残っているかを、目で撫でる。「鳥居の外ならば」と、社人は言い、目の端で社殿の中の薄暗さを気にする。社殿の暗がりの中には、木口と布の重なりと、香の古い匂いが沈んでいる。その匂いは、長年の祈りが重なってできるものだが、そこに混じる別の匂いが、僧侶の鼻の奥に微かな違和感を残す。油の匂い。獣の毛の湿り。いつからのものかは分からないが、祈りの匂いの層のいちばん下に、薄く、しかし確かに沈殿している。
僧侶は村の表を歩き、井戸の水をもう一杯いただき、干した葱の香りの中で軽く腹を満たし、午後の光が斜めになりかける頃に、もう一度村の外れまで足を延ばす。外れから村を振り返ると、屋根の葺き方、畦道の曲がり方、布の干され方、そのあいだにある空の割合が、土地ごとに違う独特の調子を持っているのが分かる。見附の村は、空の割合が少し大きい。海に近いせいか、風の道が低く広く、屋根と屋根の間をいつでも通れるように空が間を取っている。風は、語られない話を運ぶ。語られない話は、聞こうとする者の耳にだけ届く。
井戸端に綾の姿があるのを、僧侶は二度目に通ったときに見た。娘は桶を持ち、布で水の跳ねを抑え、足の置き場所を家の柱の節目で測るように歩く。その歩き方は、自分の体の輪郭を小さくまとめ、目立たない動きを選ぶ者の歩き方であり、しかしその小ささの中に芯の強さがある。僧侶はあからさまに見ないように視線を流し、娘の持つ空気の張りが、家の中の空気とどう響き合っているかを耳で測る。家の中には母と思しき女の足音があり、それは土間の湿りを確かめるように静かで、鍋の蓋を持ち上げる音は軽く、置く音はもっと軽い。軽い音の連続は、重いものを置かないための知恵でもある。
鍛冶場のほうへ歩くと、鉄の匂いと火の匂いが交じる中に、若い男の体が動く気配がし、ふいごの音が深く息をする。僧侶は戸口から一歩入らずに頭を下げ、鍛冶の若者——早太だという名をあとで知るが、このときはただ若者——の顔の輪郭と眼の底の色を見て、内側に何か角ばったものを抱えている者の目だと感じる。若者は客に向ける丁寧さで軽く会釈を返し、手を止めず、火と鉄に話しかけるように仕事を続ける。僧侶は長居せず、足を退ける。男の仕事に余計な影を落とさないためだが、自分の影が落ちたかどうかは、男の肩の微細な動きでわかる。落ちていない。落ちない影のほうが、時に深い。
夕方、名主から言われた小屋に入る許しが下り、僧侶は藁を敷いた床に布を広げ、荷を解く。荷は軽い。経本は巻物に包んで紐で締め、木鉦は布で巻いて角を守り、錫杖は壁に立て掛ける。立て掛けた錫杖の環が、木に触れて小さく鳴る。その小さな音だけで、空気が少し澄むことがある。澄んだ空気の中で、僧侶は膝を折り、経を取り出し、紙の白さに目を慣らす。字は自分が確かめるために筆で写してきたもので、線の太さに日ごとの揺れがあり、揺れそのものが彼の旅の印になっている。外から子どもの声が一度、笑いとともに駆け抜け、小屋の外の影が短くのびては消える。僧侶は口を開いても音をすぐには出さない。息の通り道を掃き、喉の奥を柔らかくし、胸の中の骨と筋をひとつずつ並べ直し、やっと声を置く。読経の声は自分に向けるものでもあり、周りに向けるものでもあり、まだ見ぬ何かに向けるものでもある。何かが来るのなら、来る前にここに音の道を敷く。それが祈りの役目のひとつだと、彼は知っている。
夜の手前、社人が小屋の戸口に顔を見せ、「今夜、鳥居の外であれば」と繰り返す。僧侶は礼を言い、灯りの用意がいらぬこと、月はないが目は慣れていることを伝える。社人は頷き、しかし目の中に、外の者に知られたくない何かの影がよぎる。影の種類はひとつではない。恥と恐れと怒りと疲れ。どれも似た形をしているが、触れてみれば違う。僧侶は触れない。触れない代わりに、鳥居の前で夜を待つ態勢を心に描く。足を置く位置、背を壁につける角度、音の逃げ道、風の向きを読む耳の高さ。祈りはただ座って唱えるだけではなく、体の置き方を決めることも含む。体の置き方が乱れると、言葉も乱れる。言葉が乱れると、音が空でほどける。
暗くなりきる前に、僧侶は鳥居の外に座り、経を膝に置く。社の奥の暗がりは深く、木の幹が夜の中で黒の濃さを増し、鈴の緒はほとんど動かず、遠くの川の音だけが一定に続く。村の家々では戸が閉まり、木戸の擦れる音が順に鳴り、犬の声が一度、二度、三度と間をあけて響く。僧侶はその間の取り方で、犬が呼びかけているのか、答えているのかを判断する。呼びかけではない。答えでもない。そこに在る、という確認の声だ。確認の声を夜が飲み込み、飲み込んだ音は地の下へ降りていく。降りていく音がある夜は、何かが上がってくる夜でもある。
祈りの声をひとつ読み、二つ目に入る前に、僧侶は声を引いた。引いた声の余韻が、鳥居の柱の木目をさするように消えていく。消える過程に耳を傾けることができれば、来るものの気配を早く拾うことができる。来るものが神であれ獣であれ、人であれ、気配は音に変わる前に、空気の重さとして現れる。僧侶は息を長くし、目を閉じず、視界の端を広く保つ。名主の言葉の重さ、社人の目の影、井戸の水の冷たさ、白い矢の布の巻き方、すべてが今夜の音に混じるだろう。その混じり具合を見極めるのが、自分の務めだと、彼はあらためて胸の内に置く。
旅の年月に、僧侶は何度か、祭りの夜に立ち会ったことがある。祈りが祈りでなくなる瞬間を見たことがあり、祈りが祈りとして人の心を戻すのを見たこともある。違いは小さなものから始まる。灯りの置き方、声の高低、榊の匂いの濃さ、足の運び、目を伏せる時間。小さな違いが積もって、最後には全く別の場所へ人を運ぶ。今夜、この村がどちらへ向かうのかを確かめるために、彼はここに座る。確かめる者がひとりいるだけで、道が半分違う方向へ曲がることがある。曲がるなら、その曲がりを見届け、言葉にして残す。それが旅の僧の役目だと、彼は知っている。
夜が濃くなり、鳥居の形が空の黒の中に溶けかける頃、僧侶は経を閉じ、息をひとつ深く吸い、吐く。吐いた息の白さはない。息は夜の中で透明にほどけ、ほどけた先で誰にも触れない。触れない息は、触れ得るものを探して漂う。漂う間に、僧侶の耳は村の内と外の音を分ける。内の音は戸の内側で小さく弾み、外の音は田の上で平たく延びる。その延び方に、今夜の夜がいつもの夜と違うことが混じっている。違いはまだ言葉にならない。言葉にしないうちに拾えるものは、言葉にしてしまうよりも確かだ。僧侶は膝の上の手を組み、指の腹で別れた皮の筋を撫で、爪の白い部分の長さで時の流れを測る。深い夜の手前で、彼の目は鳥居の向こうの闇の一角を見つめ、耳は川と田と森のあいだの薄い境目を聴き、喉の奥ではまだ声にならない祈りが細く伸びる。今夜、何が現れるにせよ、見届ける。見届けるために来たのだと、彼は静かに自分に言い聞かせる。そうして、夜の底が足元へゆっくりと沈んでいくのを受けとめる。
第6章 暗がりの声
宵のうちから風は薄く、社の前の地面は昼のうちに掃われた筋をまだ覚えていて、榊の葉の裏に残る水は玉になってはじき、鈴の緒は結び目のところでほんのわずかに重く垂れている。鳥居の影が地に長く伸び、影の端に近所の子らが昼間につけた小さな足跡が薄く残っているが、日が落ちるにつれてそれは土の色へ溶け、代わりに目に見えないものの形が濃くなっていく。社殿の脇に、若い衆が板で拵えた小屋がひとつあり、籠り屋と呼ばれるその小屋には、白い布が垂らされ、内側には藁が厚く敷かれ、塩と酒と小さな灯が置かれている。御供に選ばれた娘は大祭までの数日、そこに身を籠める慣わしだと、年寄りは言う。慣わしという言葉は、古くから続くという安堵を含むこともあれば、誰にも止められないという諦めを含むこともある。
旅の僧は、鳥居の外、社人の許しを得た場所に座して、膝の上に経を置き、声を出さぬまま喉の奥を柔らかく保っていた。読むべき声は用意してあるが、今は読むことよりも、声を出さないで空気の動く道を確かめるほうを選ぶ。社殿の中の暗がりは深く、木の柱は夜の中でいっそう太く見え、香の古い匂いの層の底に、油と獣の湿りが薄く沈んでいるのを鼻が拾う。拾ってしまえば、体はその匂いの由来を探し始める。由来を探るのは祈りにとって必要なことではないが、今夜ばかりは必要かもしれないと、僧侶は思う。
籠り屋の中には、薄い灯りがひとつ置かれ、火は高くせず、煤の匂いを立てないように、芯を短くしてある。灯の明かりの外側に、息づかいが微かにある。息は早くはないが、浅く、数を数えるような癖がある。数を数えることは恐れを遅らせる手順であり、終わりを呼ばないための術でもある。綾は膝を抱き、膝の上に布を置き、外の気配を耳でなぞっている。耳は、鳥の羽音を鳥と聞き分け、虫の鳴きを虫とわかる。わからない音が近づくとき、耳は先に体に知らせる。体の皮膚がひとつ縮み、背筋のどこかが冷えて、呼吸が手前で詰まりそうになる。詰まりそうになれば、綾は唇の内側を歯で噛み、痛みで息の道を開ける。
若い衆が籠り屋から少し離れた木立の陰に、弓と槍を持って待っている。彼らの顔は暗がりで輪郭だけだが、輪郭の硬さは光のあるときよりはっきり見える。硬い輪郭は、心の柔らかさを守る殻だと知っていても、殻が破れやすいことも彼らは知っている。名主は鳥居の外側に立ち、社人は鈴の下で榊の葉を手に持ち、誰も言葉を出さない。言葉はこの場で音になれば、責められたときに逃げ場を失う。逃げ場を失う言葉は、祈りの足をすくう。
夜が深みに入る前、風は一度だけ、谷のほうから細く吹き上がって、榊の葉先を揺らし、鈴の緒をほとんど動かさないほどに震わせた。その瞬間、鳥の声が途切れ、田の上の蛙の音が一拍遅れ、川の流れが耳から遠のいた。音という音が一度、どこかへ引かれ、空気が薄くなる。薄くなった場所に、別の重さが入ってくる。重さは足音の形をとっていない。葉の擦れでもない。匂いと温度のまとまりが、目に見えない太い筋になって、地を撫でるように動く。僧侶は膝の上の手を少しだけ硬くし、喉の奥に残していた柔らかさを、そのまま胸のほうへ滑らせる。祈りの声を出すべきかどうかは、まだ決めない。出さぬ声のほうが、今は遠くまで届く。
最初にそれを嗅ぎ分けたのは犬だったのか、風だったのか。遠くで一度、犬がわずかに低く唸り、その唸りは仔犬のものではなく、境を越えるものの存在を知っている古い喉の響きだった。唸りはすぐに引き、代わって、湿った毛と古い榊と、果実がどこかで腐った甘い匂いが、夜の空気に淡く混ざる。混ざると同時に、籠り屋に座る綾の内側で何かが小さく硬くなる。硬くなるものには手が届かない。届かないまま、彼女は数を数える。八まで数え、三に戻り、また八まで行き、ふたたび三に戻る。早太は籠り屋の外にはいない。家で横になりながら目を閉じず、胸の中の角の位置が変わるたびに、呼吸を整え、耳を空にしている。耳に届くのは風の動きだけだが、風の動きがいつもと違うなら、そこに何かがいる。
社殿の奥の暗がりの向こうから、低い笑いに似た息が漏れ来る。それは笑いというより、喉の奥に粘る息を押し出すときの音であり、聞く者の皮膚に薄い汗を滲ませる種類のものだった。続いて、籠り屋の側の木立の中で、小枝が一本、音を立てずに折れた。音を立てない折れは、人の足ではない。重さのあるものが、重さを消すことを知っていて、身を低くし、枝を踏まぬように腕を先に運び、腕の毛に露が集まる。集まった露がひとつ落ち、土の匂いが少し濃くなる。物の怪の気配が迫る。濃くなった匂いの中から、低い声がひと筋、夜の布の裏側を縫うようにして出てきた。
「……信州の早太郎おるまいな。早太郎には知られるな」
声は囁きではなく、帯のように長く、息の中に言葉を沈めて運ぶ。名だけが明るく浮かび、他の音は低く滑る。早太郎、という三文字が夜に置かれた途端、若い衆の背中の筋がいっせいに縮み、弓を握る指が乾き、社人の手の榊の葉が微かに鳴る。僧侶は目を細め、声の来た方向を視界の端で捕まえる。捕まえたところで、そこには何も見えない。見えないのは、姿がないからではなく、姿の輪郭が夜の濃さと同じように調子を選んでいるからだ。選ぶことを知っているものは、夜に強い。
籠り屋の白布の向こうで、綾の呼吸がひとつ、喉の手前で止まり、次の瞬間、意識的にゆっくりと吐かれる。吐く息に匂いは乗らない。乗らないように、彼女は昼間から何も香りの強いものを口にしていない。舌の上に残っているのは、米と塩の淡い味だけだ。布の縁が外からわずかにふくらみ、音もなく撫でられる。撫でるのは手ではない。指の形を持たない柔らかい毛の塊が、布の目の上を滑り、布の内側の空気をわずかに動かす。動かされた空気は、灯の火だけには触らず、火は揺れない。揺れない火の横で、綾は目を閉じない。閉じずに、目の焦点を布の厚みの中に置き、外側の気配をぼかさずに受ける。ぼかさずに受けるのは、恐れを大きくするが、恐れを見失うよりはいい。
声は続く。「嫁は出たか。白の香りは在るか。匂いは新しいな。——早太郎、おるまいな。犬の歯は嫌いだ。犬は知っている。犬は嘘を嗅ぐ」 言葉の端に、嗜虐の湿りがある。獲物を手に入れる前の、確かめるような楽しみが混じる。楽しみは、誰かの恐れを前提にしている。前提がなければ成立しない種類の楽しみだ。僧侶は喉の奥に残していた声を、いったん舌の裏へ押し戻す。今ここで経を出せば、声は空へ張り出し、張り出した音は相手の注意をこちらに呼ぶ。この夜は、注意をこちらに呼ぶべきではない。呼べば、重さがこちらにかかる。かかる重さに、若い衆の殻は耐えられない。
若い衆の一人が、無意識に弓の弦を指で鳴らしそうになり、隣にいた者がその手の甲を軽く押さえる。押さえる手は震えているが、押さえるという意志は強い。社人は榊の葉の表と裏を入れ替え、葉の端を自分の親指で軽く撫で、指先に残る樹液の匂いで心を繋ぎ止める。名主は一歩、鳥居から外へ出たい衝動を足の甲で抑え、足袋の中の足指を土に押しつける。土は冷たく、冷たさが足首から膝へ上がってくる。その冷たさで、熱を持ち始めた頭が少し醒める。
暗がりがいっそう濃く見える瞬間、籠り屋の白布の裾が外からすこし持ち上がりかけ、すぐまた落ちた。中を見るのを楽しむためではない。中に在るものの輪郭を手探りで探り、恐れの形を確かめ、支配する喜びに油をさすための動きだ。その動きと同時に、籠り屋の板の床がわずかに軋む。軋みは内側ではない。外のどこか、板と柱の継ぎ目に体重が短く乗ったときの音だ。綾は膝を抱く腕を解かず、指先の力をほんの少しだけ緩め、力の紐を体の中心から外へ逃がす。逃がさなければ、次に来る重さを受けられない。受けるために、いったん空にする。
「出よ」と声が低く言い、白い布の向こうで灯の火が、今度はわずかに揺れた。揺れるのは、声の息が布の目を通り抜け、火の側の空気を撫でたからだ。火は揺れても消えない。消えない火は、灯した者の手順の正しさを示す。志乃はその手順を娘に教えていた。火は高くしないこと、油は多く垂らさないこと、芯は短くして、風が来たときに火が寝るように整えること。火が寝るなら、目も寝てくれる。目が寝れば、恐れも少しだけ眠る。
僧侶は、社殿の暗がりの奥から、別の気配が動くのを拾った。動いたのは風ではなく、重さのある何かで、しかし土に足を置かない。置けば音になることを知っているから、置かない。代わりに、腕で体を引き上げ、太い根の上を渡り、樹皮に毛を擦りつける。その擦過が木に残す毛の匂いは、朝になれば人の鼻にも分かるほどに濃いだろう。今は夜で、夜の匂いに紛れているが、紛れているものほど、朝に色を濃くする。僧侶は目を少しだけ細くして、闇の中で動く濃さの差を見極める。差はある。差は、籠り屋の裏手から前へ移り、鳥居の柱の影をかすめ、鈴の緒の真下で止まる。止まったところで、声がもう一度、「……早太郎には知られるな」と、ほとんど自分に言い聞かせるように低く言う。名を口にすることで、名に宿る力を遠ざけようとする者の癖だ。恐れているのは犬の歯ではなく、犬の名に纏わる話だと、僧侶は思う。名は人の心を動かす。心が動けば、腕が動く。動く腕は、刃を持つ。
その刃は今夜、ここにはない。あるのは、恐れをやり過ごすための手順と、祈りを張るための声と、籠り屋の中の娘の息と、鳥居の外で地面に重さを渡して立つ者たちの足だ。老狒々は、その足の重さを軽く笑うように、低く息を漏らし、白布の裾をもう一度だけ撫で、今度はそのまま、音を立てずに身を引いた。引くとき、枝は鳴らない。葉は触れ合わない。匂いだけが、少し遅れて残る。残った匂いは、人の皮膚に薄く貼りつき、しばらく離れない。離れない匂いは、朝になっても鼻の奥に残る。残るものがあることが、人を疲れさせる。
若い衆の一人が、弓から力を抜き、深く息を吐き、吐いた息が音にならないように喉で押さえる。名主は足の指の力をゆっくりほどき、社人は榊の葉を裏に返し直し、僧侶は膝の上で組んでいた指をいったん解き、経の上に軽く置く。籠り屋の中の灯は、しばらく揺れたまま落ち着かず、やがて元の小さな火に戻る。綾は膝を抱いた腕の中で、数を数えることをやめ、耳ではなく、体の表面で、夜が戻ってくるのを受け止める。戻ってくる夜は、先ほどと同じ夜ではない。薄く剥がれた皮膚のように、一枚重ねが変わっている。変わったことは、体のほうが先に知っている。知ってしまえば、もう以前の夜には戻らない。
僧侶は立たない。立たずに、鳥居の外で目を閉じず、夜が完全に深くなるまで、同じ姿勢でいる。姿勢を崩さないのは、力を見せるためではなく、崩したときにこぼれるものの形を見たくないからだ。こぼれるものは、涙かもしれず、言葉かもしれず、怒りかもしれない。どれであっても、今は地面に与えたくない。地面に与えれば、地はそれを吸い、次の夜に返す。返されたものは、濃くなる。
夜半、犬が一度だけ遠くで吠え、別の場所で、同じ高さの声が短く応える。答えは合図ではない。互いの在処を確かめるだけの、細い紐だ。紐が張られていることを知れば、人は少し強く呼吸ができる。僧侶は経を巻き、膝の上で結び紐を指で探り、結び目の固さを確かめ、立ち上がる。立ち上がるとき、膝の骨が軽く鳴り、体の重さが足の裏に戻る。戻るべき重さが戻るのを確かめてから、彼は社人に短く頭を下げ、名主にも一礼し、籠り屋には目を向けずに、その場を離れる。離れる背中に、闇の目はもうない。闇は今夜のところは満足して去った。満足は、飢えの次の形だ。次の夜、満足は飢えに戻る。戻るたびに、誰かの家の戸口に白が立つ。
早太は、その夜、目を閉じずに横になっていた。家の梁の形が闇の中でかすかに浮かび、外の風の動きが壁の隙間に触れて細く鳴る。鳴りは弱く、しかし途切れない。途切れない音は、胸の角の位置を決める。角は右から左へ移り、また戻り、やがて胸骨のすぐ後ろで落ち着き、そこから動かなくなる。動かなくなったのは、動けなくなったからではない。動かないことを選んだのだと、彼は思う。選ぶということは、誰のためにかを決めることだ。決めるための言葉はまだないが、言葉がなくても、体は先に進む。朝になれば、匂いが残るだろう。残った匂いを嗅げば、夜の形がはっきりする。はっきりした形は、刃を当てる位置を教える。教えるものがあるなら、受け取る者がいなくてはならない。受け取る者は、自分であってほしいと、彼は静かに思い、その思いを誰にも見せない場所に置いて、浅い眠りに落ちる。眠りの手前で、遠いところから低い声が耳の奥に触れる。「早太郎」 自分の名前とは一字違う。名は、名の主に届くとは限らないが、名を聞いた者の心に刃をつくる。刃はまだ鞘にあり、鞘は布の下に隠れている。隠れていても、刃は刃だ。刃であることを、夜が知っている。
第7章 誓い
夜の底が崩れはじめると、鳥の声がひとつ、木の高いところで小さく弾み、それから田の上へ薄い光が広がっていった。露はまだ畦の草に重く、社の前の地面は夜の湿りを抱いたまま冷たい。鳥居の柱は朝の色で灰がかり、榊の葉先には細い水の筋が残り、鈴の緒は乾きかけの布の重みで静かに垂れている。人影はまだなく、掃き清められた土の上には、夜の間に通り抜けた何かの気配だけが、目に見えない筋として残っていた。鼻を近づければ、香の古い層のずっと下に、湿った毛と油の匂いが微かに沈んでいるのがわかる。匂いは土に貼りつき、木肌の節々に留まり、朝の薄い風ではほどけない。
早太は誰よりも早く、鍛冶場から社へ足を運んだ。足の裏で冷たい土の硬さを確かめ、踏みしめる重さを抑え、鳥居の端から奥をのぞく。のぞくというより、耳と鼻と皮膚で暗がりの残りを撫でる。鈴は鳴らない。木の根の間の湿りは昨夜よりも少し浅い。柱の影の内側、手を伸ばせば触れそうな高さに、短い毛が一本、木肌に貼りついているのを見つけ、指先で摘みかけてやめ、代わりに目で形を覚える。色は灰、先は白へ抜ける。毛に触れてしまえば、指に匂いが残り、家に戻ったとき家の匂いと混ざる。その混ざりは、守りたいものの側へ夜を連れて入れることになる。守りたい側に夜を置かない、という小さな手順を彼は選ぶ。
鳥居の外に、笠の縁の影がひとつ立った。旅の僧が、夜を見張った姿勢のまま、声も立てずに近づいてくる。早太は軽く頭を下げ、僧侶も同じ高さで目礼を返す。挨拶の言葉を交わす前に、僧侶は鳥居の柱の節に目を置き、昨夜の名を思い出すように、喉の奥で声にならないかすれをひとつ動かした。
「夜に名が呼ばれた」と、僧侶は低く言う。「信州の早太郎、と。犬の名であるのか、名の形は定かでないにせよ、あれは名を恐れておった。名はときに、刃より鋭い」
早太は頷く。名が刃になることは知っている。名を呼ぶことは、相手をこの世へ引きつける手順でもあり、相手を遠ざけるまじないでもある。昨夜の声は、遠ざける側の声だった。遠ざけながら、こちらへ近づく声だった。矛盾の形で、夜は人の胸に入り込む。
「信州まで早太郎なる犬を迎えに行かれるおつもりですか」と、早太は問い、問いの表で別のことを量る。僧侶は笠の縁に指を置き、「行くことはできる」と答え、すぐに続ける。「ただ、ここへ戻るまでに、夜がまたやってくる——」
言葉をそこで切り、僧侶は早太の顔の色を測る。測られる前に、早太は測られるべきものを外へ出す。「俺の名前は早太。一字不足で名が刃にならなくても、体が重りになります」と言う。「俺が、綾の代わりに人身御供になって、老狒々に立ち向かいます」
僧侶はすぐに否とは言わない。否と言えば簡単に守ったことになり、簡単な守りは長持ちしないことを、彼は知っている。代わりに、問う。「老狒々に食われるぞ。目にも見えぬ妖怪に勝てると思うのか」
「思いません」と早太は言う。言葉の固さは自分の歯で確かめたように真っ直ぐで、そこに虚勢はない。「勝てればよいですが、勝てるかどうかで決めることではありません。俺が行けば、今年は、綾が助かる。俺が行って、抱かれて、息が止まって、そこで終われば、終わったところから何かが動くかもしれない。刃を隠し持ちますが、勝てると見込んで行くのではありません」
僧侶は沈黙を保ち、足の裏で土の温度を測るように立ち続ける。沈黙は否でも是でもない。沈黙の厚みを確かめてから、彼はゆっくりと息を吐く。「娘と村のために身を捧げる覚悟は真に尊い。しかし、行くなら、型を持たねばならない」と言う。「型のない勇は、すぐに崩れる。崩れる勇は、村を余計に怖がらせる。それに、老狒々が求めているのは若い娘だ——その型をお前に教えられる者がいるのか」
早太は鳥居の外の道の先へ目をやる。井戸の方角、綾の家の屋根の線。彼女の手の確かさ、歩幅の小ささ、息の沈め方、目の置き場所。教わるべきものの多さが、胸の中で数になって並ぶ。「います」と言う。「俺に型を教えてくれる人がいます。布の重さを教えてくれる人が」
僧侶は頷く。「ならば、急げば間に合うかもしれない」と短く言い、視線を鳥居の柱の更に向こう、昨夜の匂いの残るところへ滑らせる。「あれは人の言葉を真似るが、人の形を愛ではしないと聞く。花嫁として外見を整えるだけであれが気を許すとは思えない——その娘の代役が果たせると軽々しく思うな」
その言葉は、早太の胸の固い角に、別の角度から薄い刃を当てるような響きを持っていた。彼は頷き、言葉を飲み込み、喉の奥の乾きを井戸の水で洗うように空気を吸い込む。「お坊さま」と、早太は言う。「名の話ですが、老狒々が嫌がる早太郎という名を、どう使うおつもりですか」
僧侶は笠の影の奥で目を細め、少しだけ笑みの気配を動かす。「名は、いつか使う。ここを守るために。今は、内に置いておく。名を外へ出すのは、物語を立てるときだ。物語は刃でもあり、蓋でもある。蓋の形は、選ばねばならぬ」
蓋という言葉が、早太の中で音を残す。蓋をするためには、底に沈めるものが要る。沈むものが要る。自分の体は、沈むにふさわしい重さか、と自問する。問うて、答えを待たない。待てば躊躇が育つ。躊躇は刃の錆になる。早太は鳥居から離れ、道の砂の粒が足袋の底にわずかに入り込む感覚を受けながら、井戸のほうへ向かった。
井戸端では、志乃が桶を洗っていた。指先は冷たい水にきゅっと縮み、布巾を絞る手の筋が細いのに強く、掌の皮は白く起きている。早太は頭を下げ、志乃は顔を上げ、目を長く置かずに、しかし逃がしもしない目で彼を見る。言葉を選ぶ時間が必要であることを、互いに知っている。「綾に……」と、早太は言いかけ、言い直す。「綾に、話したいことがあります。ここではなくても。人の少ないところで」
志乃は布巾を桶の縁に掛け、濡れた手を膝で軽く拭い、目だけで家の内側を示す。「籠り屋にいる」と言いかけて、続けない。「昼前に、井戸の水を替えに戻る。そのときに」 言葉は短いが、短い中に、許しと戒めとが見え隠れする。許しは、娘に会わせるという許しであり、戒めは、誰にも見られるなという戒めだ。早太はうなずき、礼を言い、背を向ける。背を向けながら、志乃の視線が自分の肩甲骨の間に軽く乗るのを感じる。乗った視線は、重くはないが、温度がある。温度は、彼の胸の固さの周囲だけを薄く溶かす。
鍛冶場に戻る前、早太は家の片隅の長持から布を一枚取り出した。白ではない、淡い鼠色の、薄く柔らかな古い布。布の端に細いほつれがあり、糸が一本、布の中から外へ出ようとしている。その糸の先を指で摘み、引かずに戻す。戻すという動作の慎重さが、今の自分にどれほど残っているかを確かめるためでもある。布をたたみ、懐に入れ、小刀の柄の刻みを指でなぞる。刻みは昨日、自分でつけたものだ。目を瞑っても、右の親指の腹で位置がわかる。刃は布の下に隠れる。隠れた刃は、刃であることを忘れない。
昼の手前、志乃が言ったとおり、綾は井戸に現れた。籠り屋から戻ってきたばかりの顔は、灯の少ない場所にいた者の目の色をしていて、明るさに慣れるまでの間、光を細く通す。早太は井戸の脇の柱の陰に立ち、誰にも見られない角度で、軽く手を挙げる。綾は一瞬、周囲を確かめ、志乃がわずかに背を向けるのを待ち、桶を置いて、井戸と柱の間の狭い影に入る。
「話があるんだ」と、早太は言う。言いながら、言葉の先の重さが自分の舌にどう乗るかを確かめる。舌は乾いていない。乾いていないのは、言うべきときだという合図でもある。「俺が人身御供になる。大祭の夜、籠り屋に座るのは、俺だ。——俺は、お前の代わりに死ぬ覚悟がある」
綾の喉が、声の前に小さく動き、目が一度だけ大きくなる。大きくなった目に、驚きと怒りと恐れが重なり、そのどれもがすぐに形を変えられず、彼女は最初の言葉を選び損なう。選び損なった一拍のあとで、彼女の声は低く、しかしはっきり出る。「だめ」
その一言は軽くない。軽くないのに、短い。短い言葉で、綾は早太の前に立ち塞がる。その足は震えず、手は桶の縁に置かれていて、指の先は白く、掌は湿っている。早太はその湿りの温度を目で拾い、首を横に振る。「だめでも、俺がやる」と言う。「人身御供は娘。老狒々は娘を嫁にして食う。あなたは男」と綾がきっぱりと言う。
「だから娘としての型を教えてくれ。俺は、お前の歩き方を知りたい。布の重みを知りたい。抱かれたとき、体のどこがどう沈むか、教えてほしい。油断をさせて刃で刺す。勝てるとは思っていない。だが、刺すつもりだ。刺せるなら、刺す。刺せなくても、俺が行けば、お前が助かる」
綾は息を吸い、吐き、吸い、喉のどこで声を出すかを選び直す。「あなたにそんなこと、させられない」と、ゆっくりと言う。「させないと言って、どうやって止めるのかを、今、考えられない。止める言葉が見つからない。だけど、させない気持ちは変わらない」 志乃の気配が背に近づく。綾は一歩、柱に寄り、影の中で早太を見る。「それでも、ここで大声は出さない。声を上げれば、矢と同じになる。誰かが『見た』ことにしてしまう。——だから、今は、だめと言うだけ」
早太は頷く。頷きながら、彼女の頬に落ちる細い髪の一本一本の位置を目で覚える。覚えるのは、後で体をそこへ合わせるためだ。「今夜、鍛冶場の裏に来てくれ」と、早太は言う。「人に見られない道を通って。そして、教えてくれ。歩幅からでもいい。袖のさばきからでもいい。教えられることを、全部」
綾は目を伏せ、井戸の水の冷たさを掌に受ける。冷たさは彼女の内側で硬いものに触れ、硬いものの縁を少しだけ丸くする。「やめて、と言いたい」と、小さく言う。「やめて、と言えなくなる前に、やめて、と今、言う。——でも、やめないのだとしたら、型を間違えないで。型を間違えれば、老狒々に見破られるから」
志乃が振り返り、二人の間に視線を入れる。視線は軽いが、深さがある。志乃は何も問わず、何も告げず、しかし見ていることで許しを与え、同時に境を引く。境は細く、しかし消えない。早太は綾に短く頭を下げ、井戸から離れる。離れる足が、地面の砂をわずかに引き摺り、その音が自分の耳にだけ届く。届いた音は、心の中の角の縁に重なり、そこへ細い紐を結ぶ。紐は、夜へ向かうためのものだ。
鍛冶場へ戻ると、火はまだ起こしていないのに、炉の黒が夜よりも深く見えた。ふいごの皮に手を置き、伸びを確かめ、紐の結び目を探る。結び目はほどかず、上に新しい結びを重ねる。古い結びは、下に残しておく。残した結びが、上の結びを安定させる。日が傾く前に、彼は小刀の刃を布で拭き、柄の刻みに指を置き、目を閉じて、刃の重さではなく、刃のない部分の重さを測った。刃のない重さが、今は大事だ。刃を持っていくが、夜に置くのは、刃より重いものだ。置くものの名は、まだ言葉にならない。言葉にならなくていい。言葉になったものは、軽くなる。軽くなってしまうと、沈まない。沈めるために、今は、言葉を持たない。指の腹に残る鉄の匂いと、布の柔らかさと、土間の湿りと、遠くの海の塩の気配とを一緒に吸い込み、早太は夕方を待った。今夜、型の教えが始まる。教えの一つ目は、歩幅だ。二つ目は、息。三つ目は、目の置き場所。四つ目は、抱かれても壊れないための、体の空の作り方。数え方は、綾が決める。決めてもらうために、早太は今、ここにいる。
第8章 拒絶と崩落
昼の熱が土の浅いところに留まり、家々の板戸の影が細長くのびていた。綾は籠り屋に戻る前に、母の前へ座った。土間の冷たさが膝から上へゆっくり上がり、背に汗の薄い膜が貼りつく。志乃は針山を脇に置き、糸をほどき、また結び、指にひとしずく唾をつけて毛羽を寝かせる。動きはどれも手慣れているのに、指先の皮膚はいつもより硬く、関節の動く音が内側で僅かに鳴るように感じられた。
「早太は、なにを言いに来たの」と母が問うた。問う声は柔らかいが、柔らかさの奥に、言葉を受け止めるための深い皿のような硬さがあった。
綾は息を吸い、吐き、喉の内側にかかった小さな棘を舌で外し、「人身御供になると言い出した」と答えた。「大祭の夜、籠り屋には自分が座ると。私のかわりに」
志乃の手が、そこで初めて止まった。針の先は糸の輪の外で宙に浮き、光を細く拾う。「止めなかったのね」と言う。責めてはいない。それでも、責められているような痛みが、綾の肩の骨の間に鋭く差し込んでくる。
「やめさせたかった。止める言葉を探した。けれど、止める言葉はどれも、私の恐れの形をしていて、早太の背に投げかけても足を鈍らせるだけになる。鈍らせれば、今夜が長くなって、明日が来る」
志乃は針を布に刺し、そのまま置いた。針が立つ。立つ針は、家の中の静けさの中でひとつの印となり、その印を見ているだけで、胸の内側の気持ちが整うことがある。「おまえは、早太に何をしてあげられるの」と母は続ける。「早太は何を求めたの」
「若い娘の歩き方を。息の沈め方を。布の重さの扱いを。抱かれたとき、どこを空にして、どこを硬くするかを」
「教えるのね」 志乃の声は、針の向こうで細く通り、しかし崩れなかった。「教えることは、おまえ自身のためでもある。彼に教える形の中で、おまえの恐れも形になる。形にならないものは、夜に変わる。夜は形のない恐れを好む。形を与えてやれば、夜は少し退く」
綾は頷いた。頷くと同時に、頬の裏側に熱が上がり、目の奥が重くなる。泣くという行為は、ここでは簡単ではない。涙が落ちれば、土はそれを飲み、飲んだものを夜に返す。返されたものは濃くなって戻る。志乃は娘の頬に手を伸ばしかけ、途中で止め、手を下ろした。「籠り屋に戻りなさい。灯の芯を短くしておきなさい。今夜は、灯が寝るようにして」
綾は立ち上がり、戸口で振り返り、母の背を見る。背は細いが、板のように真っ直ぐで、軒の陰がその背に沿って落ち、影が一枚、余分に見えた。「おかあさん」と呼ぶ。呼んで、言葉が続かず、志乃は振り向かないまま、手だけで「行きなさい」と示した。その手の形は、娘を生かすために何度も動いてきた形であり、娘を送り出すために今も動く形だった。
夕刻、鍛冶場の裏は早くから陰っていた。小川の音は細く、草の先に残る水の玉は少しずつ小さくなって、土に吸われていく。早太は水で手を洗い、指の間に残った鉄の匂いを布で拭い、髪を縄で低くまとめた。布の薄い鼠色を懐に入れ、足袋の紐を結び直す。結び目は硬すぎず、緩すぎず、ほどくときに音を立てない程度。
綾は陰の間を選んで来た。籠り屋から鍛冶場までの道のどこに人の目があるかを知っていて、その目の前を通るとき、視線の高さをわずかに変えて、見せるものと隠すものの境を自分で引く。境を引くことに慣れた女の歩みは、軽くはないが、音を持たない。鍛冶場の裏手まで来ると、一度だけ深く頭を下げた。早太も頭を下げ、それから互いに目を見た。目には、それぞれが背負ってきたものの重さが、薄い膜のように載っている。膜は簡単には破れない。破れない膜の上からでも、教えることはできる。
「まず、歩幅」と綾が言った。「膝を柔らかく。歩くとき、足の裏全部は使わない。指の付け根で地面を抱いて、踵は置くけれど、鳴らさない。歩幅はこれくらい」 自分の足を一歩、二歩。早太がまねる。最初の一歩で、肩がわずかに揺れた。揺れは重心の高さから来る。綾は彼の肩に手を置き、押しも引きもしない位置で、肩の力だけをほんの少し溶かす。「肩を上に持ち上げないで。怖いと肩が上がる。上がれば、布が鳴る。布が鳴れば、夜が見る」
歩幅は揃い、次に袖。袖を振れば布が音を立てる。音は自分では小さくても、聞く者の耳には大きい。「袖の中で手を丸めて。指を伸ばすと、袖口から指の骨の形が出る。女は、そこを見られるのを避けるの」 綾は自分の袖で示し、早太の手を取って、指をひとつずつ内へ送る。送られた指は彼の掌の中で熱く、綾の手は冷たい。冷たい手が布を通して肌の上の毛を静かに寝かせる。「目は、相手の胸より少し下。真っ直ぐ見ない。真っ直ぐ見れば、挑む目になる。挑む目は、夜を呼ぶ」
早太は言葉の一つひとつを体の中に沈める。沈めたもののうち、沈みにくいものがある。それは「抱かれたとき」の話だった。綾は言いにくさを飲み込み、言葉を置く場所を選び直し、声を少し低くした。「抱かれたら、最初は逆らわないで。力を全部で受けると、骨が先に壊れる。壊れてしまえば、何もできない。だから、力の通り道を、いったん空にする。肩の内側、脇の下、肋の間。そこを空に。空にするというのは、力を入れないのとは違う。力の向きを変えるということ。内に寄せず、外へ。……できる?」
早太は頷き、綾が示す位置に自分の意識の手を置き、空にする感覚を探す。探す最中、胸の角が音を立てて動き、骨と骨の間で新しい位置を見つけた。見つけた場所は、痛みがあるのに、痛みが足場になりそうな硬さを持っていた。「練習を」と彼が言い、綾は、ためらいの後で頷く。頷くと、喉の奥が少し焼けるような感覚が走る。それは恥ではなく、恐れが身の内を通り過ぎるときに残す熱だ。
抱かれる稽古は、木の柱を相手に始めた。柱の角に肩を当て、体重を預け、肋の間の空気を移す。綾は後ろから彼の肩甲骨の間に手をあて、背筋のどの筋が固く、どれが柔らかいかを拾う。「ここ」と指で示し、胃の上で呼吸を止めないように、浅い息を押し返す。「呼吸は、盗まれるもの。盗まれる前に、小さな息をたくさん持っておいて。盗まれたら、空になるふりをする。ふりでもいい。ふりの間に、目を使って、喉の位置を探す。老狒々の喉は、ここより少し上、耳の付け根へ向かうところ」
言葉に獣の形が滲むたび、綾の身体はわずかに強張り、言葉の途中で言い直す箇所が増えた。増えるたびに、彼女は自分に怒り、それでも言い直し、続ける。続けることが、今夜の支えの一つだと知っている。支えを細かく刻んで渡すことが、彼女に許されたやり方だ。早太は柱から離れ、綾と向かい合い、布の片端を手にした。綾はその布を彼の肩にのせ、襟を直し、襟の位置が喉の影をどう作るかを確認する。「この影が深すぎると、女の首ではなくなる。影は浅く。顎を少し引いて。引きすぎない」
彼は従い、影の浅さを覚える。覚えたところで、綾がふと手を止めた。止めた手は、布の上に置かれたままで、そこから先へ行くことを躊躇っていた。躊躇いの中には、彼の体が今から「女として」見られるための形に整えられていくという事実があり、その事実が彼女の胸を妙に締めつけた。締めつけるのは羞じではなく、早太にその役を負わせることへの激しい拒みだった。拒む心は、形のない刃となって彼女の内側を傷つける。彼女は布から手を離し、後ずさり、そして堰を切ったように言葉が溢れた。
「やっぱり、だめ。やっぱり、あなたにそんなこと、させられない。あなたが女のふりをして、老狒々の腕に抱かれて、その腕の重さを受けて、息が詰まっていくのを、私が教えた型で耐えて、それから刃を出そうとするのを、想像するだけで、私の体が内側から壊れる。私が、あなたに手をかけて、あなたを女にするの? 私の教えたことが、あなたの死に方になるの? そんなの、だめ」
言葉は止まらず、止まるところを探しながら、何度も同じ場所を回る。早太は、それを止めようとはしなかった。止めれば、言葉の行き場がなくなる。行き場のない言葉は、夜のほうへ行く。夜へ行った言葉は、戻るときに形を変え、もっと冷たくなる。綾は胸を押さえ、背を曲げ、膝に手をつき、呼吸の形を探す。「思いとどまって」と、やっとのことで言った。「今言える言葉は、それだけ。やめて。やめて。やめて」
夜の気配はまだ遠い。遠いのに、綾の声が夜に似た深さを持ったので、鍛冶場の屋根の瓦が、微かな音で答えたような錯覚がする。早太は一歩近づき、しかし手は伸ばさず、距離の中で言った。「俺がやる。やめて、と言われてやめられるなら、俺は今ここにいない。俺はここにいる。ここにいる俺は、籠り屋に座るための足を持っている。足は恐れで動かなくなる。動かなくならないように、型が要る。型を俺にくれ。俺はお前に何も求めない。手順だけを求める」
綾の目は涙で潤み、しかし涙は溢れず、目の表面で灯りを細かく砕いていた。砕けた灯りは、彼の顔の輪郭に小さな点を散らし、その点のひとつひとつが脈を打つ。彼女は口を開き、閉じ、再び開き、「……ごめん」と言った。「ごめんね。あなたを助けたいのに、あなたを止めたいのに、私ができるのは、あなたに女としての仕草を教えることだけ。そんなこと、したくないのに。——でも、教える。教えるから、私の言うとおりにして。私の言うことは、あなたの命を助けたい者の言葉だから。あなたを死なせないための言葉だから」
「ありがとう」と早太は言う。その言葉を選ぶまでに、彼の胸の角はまた位置を変え、今度は痛みを少し減らして落ち着いた。綾は涙を袖で押さえ、息を整え、再び彼の肩に手を置く。手の力は先ほどより確かで、震えは残っているが、震えの芯に固い芯ができていた。
稽古は続いた。歩幅は更に小さく整えられ、袖の振りは音を消し、目の置き場所はひとつ低くなった。息は胸から腹へ降り、腹から腰へ降り、腰から足へ降りる。降りた息は土に触れ、体の上から恐れを少しずつ落としていく。落ちた恐れは地面に吸われ、土はそれを何の痕跡も残さず飲む。飲んだ土は、夜には黙っている。
抱かれる稽古は、ふたたび柱を使い、それから綾が布越しに両腕で彼を抱え、重心の移り方を指で示す。指が触れるところは限られ、肩と肘と腰の上。触れ方は教えのための触れ方であり、彼の身体が女性という仮の形に入っていくための線引きだった。綾は肩甲骨の間に指を置き、「ここから抜いて」と言い、彼はそこから力を抜くふりをして、別のところに力を流す。流す先は、脇の下、肋の間、腹の下。そこに空白を作る。空白は、刃の通り道の前庭になる。
短剣の角度も、枝に結んだ布を喉に見立てて繰り返し、角度と深さと、突きのあとの抜きの方向を確かめた。抜きの方向が間違うと、刃が布に引かれ、腕が止まる。止まった腕はすぐに折られる。折られないために、綾は彼の手首を取り、布の下に隠れた刃の刃先の位置を自分の指で追い、角度を少しずつ修正する。修正するとき、彼の呼吸が途切れないように、言葉を挟む。「いま、よくできた」「そこは少し浅い」「次はもう少し斜め」——言葉の高さは一定で、怒りも泣きもない。泣きは後でまとめてすればいい。今は、型が先だった。
やがて、夜が草の先から降りてきた。降りてきた夜は、昼間の匂いを薄く剥がし、鍛冶場の裏の空気に別の湿りを足す。綾は布をたたみ、鼠色を彼に渡す。「これは稽古の布」と言い、「白は祭りの朝。白は家のもの。今夜はこれでいい。布は音を吸う」 彼は頷き、布を肩にかけ、襟を合わせ、手で形を作る。作られた形は女に近い。近いが、彼の体の芯はそのままで、それが彼を救う。
別れる前に、綾は最後の拒みをもう一度口にした。「それでも、やめてほしい。今、言わないと、もう言えなくなるから」 声は小さく、足元の土に落ちる。落ちた声は、すぐには吸われず、土の上で丸く留まる。早太はそれを踏まないように、一歩下がり、距離をとり、「やめない」と再び言う。「籠り屋に行って、戻る。戻れなかったら、——戻れなかったら、お前が俺の分も生きる。俺の行いの重さを、背負う必要はない。お前の背は、家と村のために空けておけ」
綾は首を横に振り、それ以上は何も言わなかった。言えば、また崩れる。崩れたものを夜に見せれば、夜は喜ぶ。夜を喜ばせてはいけない。彼女は深く頭を下げ、背を向け、籠り屋へ戻る道を選んだ。道の途中、井戸の縁に手を置き、木肌の冷たさを掌に写し、目を閉じた。目の裏に、さっき彼の肩に置いた自分の指の位置が浮かび、その指が、もしも彼の最後の背中に触れることになるのだとしたら、と考えてしまった。考えてしまって、歯を噛み、舌を少し噛んだ。痛みは言葉を追い返し、息の道を保つ。
鍛冶場にひとり残された早太は、鼠色の布の襟をもう一度直し、肩に滑る感触を覚え、布を畳んだ。畳んだ布の端は、きちんと角が合っている。合っている角を見ることで、胸の中の角の形も、少しだけ整う。整った角は、刺すための刃ではない。座るための芯だ。夜の深さが背に降りる前に、彼は小刀の柄の刻みを指でなぞり、目を閉じ、今夜の稽古の一つひとつを胸の内側にもう一度通した。通すたびに、恐れがそこから零れそうになる。零れそうになる前に、型に流し込む。流し込まれた恐れは、形を持ち、形を持てば、扱える。扱えるものだけが、夜の前に並べられる。
遠くで犬が短く吠えた。吠えは合図ではなく、ただの応答でもなく、在りどころを確かめる声だった。在りどころが確かなら、人は一歩を出せる。出した一歩が、今夜の終わりを作るかどうかは分からない。分からないまま、それでも歩く。歩くために、彼は灯を消し、土間の匂いを吸い、背を伸ばし、夜のほうへ顔を上げた。
第9章 密談
夕方の光が薄くなり、鍛冶場の裏の小さな流れが草の根を撫でる音が聞こえるころ、三人が集まった。早太は仕事を終えた手を水で洗い、綾は籠り屋から戻る途中の影を選び、旅の僧は名主の家に礼を述べたあと、鈴を鳴らさぬ歩幅でここまで来た。鍛冶場の土間から漏れる鉄と煤の匂いは薄く、代わりに湿った土と川の匂いが鼻に残る。すぐ脇には古い木の根が露出していて、座ると腰が落ち着く。人の言葉は、立ったままよりも、地に近い場所で静かに育つ。
最初に口を開いたのは僧侶だった。「名主には、私が信州へ行くことを話した」と、声を低く保って言う。「矢の夜を見たので、名だけではなく、犬を借り受けに行くのだと。戻る日は決められないが、行くという形があれば、村の外へ向けて筋が立つ。内へ向けては、別の筋を立てよう」
綾は目を細くして頷き、早太は膝の上に置いた手を握りしめずに開いた。「その別の筋は俺が引き受けます」と早太が言う。「俺が籠り屋に座って、老狒々を近づけます。できるなら喉を刺す。できなければ、老狒々に花嫁として食われるまで。どちらにしても、今年は俺が終わらせます」
僧侶は二人の顔を見比べる。綾の目は、泣いたあとの濡れが引ききらない色をしているが、言葉を支える場所が整っている。「終わらせるために、三つ、決めておきたいことがある」と僧侶は続けた。「ひとつは、内の段取り。ひとつは、外の物語。ひとつは、もしものときの印のこと」
綾が体を少し前に寄せた。「内の段取りから話してください」と言う。内と外の境を守りながら、内側のことに先に手をかけるのは、家を守る女の癖でもある。
僧侶は頷き、言葉を選ぶ。「籠り屋の白布の裾に、細い紐を忍ばせよう。結び目は外に見えないようにして、紐の端は白布の陰から、御供——早太——の手の届くところへ垂らす。老狒々が布を撫でて持ち上げかけたとき、御供が合図の息を一つして、紐を引く。引けば、裾が落ち、老狒々の視線が一拍、下に落ちる。その一拍が、刃の入口になる」
早太は紐の手ざわりを指先の中で想像し、頷く。綾は眉をわずかに上げ、「紐は何で」と問う。僧侶は「麻がよい」と答える。「麻は細くても強い。指に馴染む。音が出ない。——それから、灯だ。灯の芯は短く、油は薄く。火がやや寝ていれば、影は柔らかくなる。影が柔らかければ、老狒々の目にこちらの輪郭が強く映らない。輪郭が薄いほうが、抱かれたときに喉の筋肉の動きが見える」
綾は頷き、灯の高さを頭の中で決める。「盃はどうしますか」と彼女が言う。今までの稽古の中で、盃は何度も手に持たれ、空気を含ませる練習をした。盃はごまかしではない。目を運ぶ道具だ。
僧侶は少し考え、「酒は用意するが、眠りを誘うものは混ぜない」と静かに言った。「酔わせるための杯は、祈りの場に毒を置くことになる。毒は、後々までこの地に残る。残るものは増やさないほうがいい。酒そのものの香りが、あれの鼻をくすぐる。鼻が上を向く瞬間、喉が伸びる。その伸びを逃さぬことだ」
早太は顎の下から耳たぶのつけ根に向けての角度を、心の中で指でなぞる。「顎の内側から斜めに」と言い、綾が続ける。「そして、二の太刀は脇。腕に絡められても、脇は見える。肋の隙間に刃先を送る。——『ふり』を忘れないで。抱かれたとき、最初の一息は、からだを落とすふり。ふりで時間を作る。時間が作れたら、目で喉を探す」
僧侶は二人の言葉の速さが揃ってきたのを見て、次に外の話へ移した。「外の物語だが、私は今夜、村の外れから信州へ向かったことにする。途中まで行って、山の宿で一夜を明かし、明日、さらに進んだという形にする。実際には信州には行かず、身を隠す。事が済んだ後、私は再び現れ、『信州の寺にある犬の縁を頼み、名を呼んで力を借りた』と語る。犬の名は、昨夜、あれが自ら口にしたあの名を使う。『早太郎』。信州の寺は、諏訪の筋の光前寺がよい。旅の者の口にも馴染む名だ」
綾は唇を噛む。「嘘を……」と言いかけ、言葉を背に戻し直す。「嘘が、私たちを守るのなら、呑みます。ただ、私の身に何があったかは、私と、ここにいる二人と、親だけに残しておきたいのです。外に向けては犬の話を聞かせ、内に向けては沈黙を置きます。それで、私の生きる場所が保たれるなら」
僧侶は静かに頷いた。「そのための物語だ。あなたを守るためでもあり、村の秩序を守るためでもある。誰かが『娘が抱かれた』と大声で言えば、それはあなたひとりを辱める言葉になり、同時に来年の人身御供を受け入れやすくする毒になる。犬の名を前に置けば、人は犬を見、あなたを見なくなる。見ないことが救いになる」
早太はその言葉を胸で転がし、母の顔を思い浮かべた。「俺の母には、どこまで」と問う。内の人間に嘘を通す痛みは、外に向ける嘘の痛みとは別の形をしている。
僧侶は言葉を慎重に置く。「母御には、あなたが『若い衆の手伝いで夜に立つ』とだけ告げるがよい。終わったあと、あなたが戻れたなら、あなたの口で話すことだ。戻れなかったなら——」僧侶は言い淀み、しかし目を逸らさない。「戻れなかったなら、私は信州から犬を連れたという筋のまま、犬の墓をこの村の外に置くことを名主に進言する。墓があれば、人はそこへ言葉を置ける。言葉を置く場所は、人を生かす」
綾は拳を握り、その中で爪が掌に触れた。「もしも、戻れなかったなら」と彼女は低く言う。「そのときは、私が椿の花弁をひとつ、あなたの家の戸口に置く。誰にも気づかれないように。白い小さな椿。椿は落ちるとき首から落ちる。嫌う人もいるけれど、私はその白が好き。冬に見ても、春に見ても、静かな白」 綾が今、そんなことを言う必要があるようには思えなかった。言葉は彼女自身のための約束であり、誰かに許されるためのものではなかったが、早太に勇気を与えた。
僧侶はその約束を心に置き、最後のひとつ、印について話を戻した。「もし戻れたなら、その椿を、今度はあなたが彼に返せばいい。誰にも見られずに。ふたりだけの印を持つことは、嘘の中に真実の場所を作る。真実の場所がひとつでもあれば、嘘に呑まれずに済む」
早太は綾の顔を見る。綾は首を小さく縦に動かした。ひとつ縦に動いたその首筋に、稽古で意識した喉の影が薄く乗る。薄い影は、今夜の稽古の成果であり、同時に明日の刃の道しるべでもあった。
僧侶は土に手をつき、細い草の根を指先で撫でた。「最後に。老狒々に情を寄せぬこと。あれが使う言葉に惑わされぬこと。『嫁』という語と『愛』という語は似ているが、あれの口では同じではない。あれの求めるのは抱擁ではなく、支配だ。支配に抱擁の形を着せただけだ。あなたの体は、支配されるために白を着るのではない。これを終わらせるために白を着るのだ」
綾の目がもう一度潤んだが、涙は落ちなかった。「終わらせるために」と、彼女は復唱する。その言葉は、彼女の口から外に出て、土の上に静かに置かれた。
細かい合図も決めた。籠り屋の中で、早太が喉を湿らせるように小さく咳をしたら、それは盃を手にしたという合図。盃の縁を左の指で二度、軽く叩いたら、それは紐を引く準備が整ったという合図。斜め後ろに目をやり、灯の火を一息だけ細くしたら、刃を送る前の最後の合図。ただ、どこまでそんな合図ができるかは定かではない。外から見れば何の意味もない仕草に見えるよう、綾が所作の流れの中に紛れ込ませる型を用意した。若い衆には知らせない。知らせれば、彼らの顔に印が出る。印は夜に拾われる。
名主や社人へのことづけも僧侶が引き受けた。「私は今夜、ひとまず村を出たことにします」と僧侶は言い、二人に背を向けて立ち上がる。「誰かが私を途中で見てもよいように、鈴の音をあえて少し鳴らしていく。鈴は耳に残る。残る音は、噂の手綱になる。噂は、導く場所を選べば、悪くない」
綾はその言い回しを苦く笑い、「お坊さまは噂の扱いがお上手」と言った。僧侶は肩をすくめる。「旅の者は、噂で飯を食い、噂で夜を凌ぐ。どこで火が出ているか、どこで水が濁っているか、噂は教えてくれる。噂を嫌ってはいけない。ただし、噂を飼わなければならない。今夜から明日にかけて、それをする」
最後に三人は短く頭を下げ合った。言葉を重ねると、何かが溢れる。溢れれば、夜に匂いが立つ。匂いを立てたくなかった。僧侶は鈴を鳴らさぬよう錫杖の環を押さえて道に出、綾は籠り屋へ戻る道に消え、早太は鍛冶場の暗がりへと身を引いた。
早太は鼠色の布を膝の上に広げ、襟の角を合わせ、指の腹で布目を撫でた。撫でながら、今日決めた合図を頭の中で順に並べ、目を閉じたまま、喉の奥に置いた小さな咳の形を作る。咳は声ではない。合図だ。合図は、自分のものにしておかなければならない。外から借りたもののままでは、夜に取られる。自分のものにする手順が、今夜の稽古の最後だった。
綾は籠り屋に戻り、灯の芯を短く切り、油を敷く量を指で測る。指の腹に付いた油の薄い膜を布に移し、火を寝かせ、白布の裾に麻の細紐を通す。結び目は見えないところ、布の中の縫い目の間に隠し、紐の端を布の裏へ落として、自分の指で触れて位置を覚える。位置を覚えながら、昼に言った言葉が胸の中で形を変え、硬い拒みの塊と、教えるための柔らかい糸とが、互いに触れ合って止まらない。止まらないものは、ひとつずつ仕事の中へ入れる。ひとつ入れるごとに、糸は少し静かになる。
僧侶は村を出る道を選び、名主の家の前を通るとき、わざと錫杖の環をひとつ鳴らした。鳴らした音は誰かの耳に残り、夜の間に二度、三度、他の口で反芻されるだろう。反芻された音は、「お坊さまは発たれました」という言葉と結びつき、朝のうちには故事の形をとる。朝になれば、僧侶は姿を消したまま、村の外の古い祠で夜を明かす。祠の木扉には古い爪の跡があり、木目は爪の痕でささくれている。爪の痕の深さを指で撫で、僧侶は目を閉じる。噂の手綱は、引き過ぎれば切れる。緩め過ぎれば逃げる。手綱の加減を測る手は、祈りの手とは別の筋肉を使う。
夜は静かに落ち、三人がそれぞれの場所で、それぞれに同じ夜を引き受けた。引き受け方は違うが、目的はひとつだった。終わらせるために。終わらせるために、嘘を置き、型を置き、印を置く。置いたものが、明日の朝、彼らを守る蓋になるかどうかはまだ分からない。分からないまま、彼らは手に持てるものだけを持ち、持てないものは、それぞれの胸の内の深いところに沈めた。沈めたものは、今夜ひと晩だけ、音を立てずにそこにいる。明日の光が来たとき、音を立てるのは、刃と布と、名のほうだ。
第10章 装いの初歩
夜の手前の薄闇が、家々の軒の下にたまっていくころ、綾は母の目を受けてうなずき、戸口をそっと閉めた。土間に広げられた長持の蓋は外され、その上には白ではない練習用の鼠色の布、古い小袖、晒の巻き布、細い紐、香袋、櫛、椿油の小瓶、米ぬかを包んだ小さな布が並んでいる。志乃は膝をつき、指の節で布の端を一度撫で、その滑り具合と重さを確かめる。鼠色は音を吸い、練習の失敗を外に漏らさない。
早太は戸口の内側で草履を脱ぎ、土間に入ると、いつもより静かな足取りで腰をおろした。鍛冶場の匂いがまだ袖に残っていて、鉄と煤の薄い影が家の匂いにまじる。志乃はそれを嗅ぎ分け、何も言わず、米ぬかの布を指にひっかけ、早太の手を取る。「まず手」と短く告げる。手の甲に薄くぬかをひろげ、掌には油を少しだけ落とす。手は動きの先端であり、音を生む場所でもある。ぬかは汗を吸い、油は布に引っかからない滑りをつくる。「女は、手のひらを見せないことが多いの」と志乃が言い、綾が続ける。「見せるときは、何かを差し出すとき。差し出す手は、指を揃えて、指先を少し内に」
晒を取り、胸に巻く。息の行き場を塞ぐためではなく、体の線を整えるための巻きだ。綾の指が晒の端を受け取り、背のほうで交差させ、結び目を目立たない位置に落とす。早太は自分の胸の輪郭が別の形に仕立て直されていく感覚を、抵抗せずに受ける。晒の布は冷たく、しばらくすると体温で温まる。温まるころには、胸の中の呼吸の重心がわずかに下がり、腹に息を置くことが容易になる。「息はここ」と綾が示し、志乃が頷く。「上に上げると、首が鳴る。鳴れば、夜が見る」
小袖に袖を通す。鼠色の生地は柔らかく、肩に乗る重みは白に比べれば軽いが、軽い中にも規律がある。襟の合わせは左が上。志乃が襟元を直す手は、娘の髪を結い、嫁入り前の支度を手伝ってきた年季のある手で、その手が今、近所の男子の襟をなだめているという事実に、彼女自身の胸の奥が一度だけ軋む。軋みを表に出さぬよう、指の力を丁寧に配り、襟の角度を喉の影に合わせる。「影を深くしすぎないで」と綾が言い、早太は顎の位置を微調整する。顎は引きすぎると頑なになる。頑なさが夜を煽る。
帯は麻の細帯。結びは前ではなく、横に軽く。結び目の位置が高すぎると幼く見え、低すぎるとだらしない。志乃が結び、綾が少し下げる。帯の下に香袋を忍ばせる。香は椿油と米ぬかにほんのわずかな塩を混ぜたもの。家の匂いがする。強い香ではない。強い香りは、獣の鼻に印をつける。「この匂いは、私の家の匂い」と綾が囁く。「あなたがこれを身につけるのは、私があなたに私の場所を渡すから。どこにいても、ここに戻る道を嗅ぎ分けられるように」
髪は長くない。早太の髪は低くまとめられる程度の長さで、女の垂らす髪には足りない。綾は鼠色の布の薄い帯を取り、頭の後ろで結び、布の余りを髪の下へ滑らせ、増し布のように見せる。布は髪の影をつくり、首筋を細く見せる。「髪は揺れてはいけないときがある」と綾。「揺れる髪は目を引く。目を引けば、見られる。見られたいのではなく、見られずに通りたい」 志乃は短い鬢を櫛で寝かせ、椿油を指先で薄く延ばし、産毛を肌に貼り付ける。貼り付いた毛は灯りを反射しない。
声の稽古は椀を持ちながら。茶ではなく、ただの水を椀に少し。椀の縁に唇を寄せ、喉を上下させずに水を含み、舌の上で転がす。女の声は高いという素朴な考えは捨て、喉に力を入れないで言葉を前に出す。「喉ではなく、唇で」と綾。「唇の形が音をつくる。口の両端を少しだけ閉じて、言葉を押し出すように」 早太は「はい」と言い、次に「ええ」と言い、次に「いいえ」を小さく試す。志乃がうなずく。「『はい』は家の中のことば。『ええ』は外向き。『いいえ』は滅多に言わない。言わないで済むように、目で断る」
座り方も練習する。膝を揃え、裾を払ってから静かに膝を折り、腰を落とす。背は反らさず、縮めもせず、座の上に垂直に置く。「膝で座ると指が見える。指が白いと目につく。足袋の汚れは隠してはいけない。働かぬ足に見えるから」と志乃が言い、綾が笑う。「うちの足は働いているから心配ない」 笑いは短く、二人の緊張を小さくほぐす。ほぐれた糸はすぐにまた張る。張り直すのは、明日のため。
立ち居振る舞いは連続の型で覚える。布のすそを指二本で少し持ち上げ、段差を越える。持ち上げた指先は見せすぎず、隠しすぎず。戸口での会釈は首だけでせず、背全体を少し傾ける。目線は真っ直ぐより少し下。人の顔の間、喉と胸の境に置く。「喉を見るのは後」と綾が言い、早太の目に釘を打つ。「今は人の喉ではないところを見て。見られていると気づかれない場所を」
志乃は足音の稽古もさせる。土間で、板間で、敷居の上で。土間では足の裏全体を使うが、踵に重みを残さない。板間では板の節を避け、節に触れると鳴るから、節目の上では指の付け根で軽く。敷居は高い。高いところは自分の体を軽くして越え、軽くするために息を先に吐く。吐いてから上げる。上げる足は、もう片方の足の上を越えない。越えれば歩幅が広く見える。
綾は鼠色の小袖の上から、細い紐で袖口をわずかにすぼめる。袖が手から落ちていくときの音を消すためだ。手首が隠れ、指の第一関節まで布が覆う。覆う布は、脈の位置も隠す。「脈は見せない」と綾。「脈が見えると、早いのがばれる。ばれたら、夜は喜ぶ」
次に所作の流れに合図を紛れ込ませる練習をする。喉を湿らすための小さな咳は、盃を手にする直前の「息の整え」に見えるように、間をずらす。盃の縁を左指で二度叩く合図は、盃の「曇りを払う」仕草に見えるよう、目を盃に落とす角度を作る。灯の火を一息だけ細くする合図は、風を感じ取って灯を守る所作の延長に見せるため、袖を少しだけ動かす。「合図は合図に見えてはいけない」と綾。「合図は生活の続きでなければならない」 早太は頷き、合図を体に通す。通した合図が自分のものになるまで、幾度も重ねる。
志乃は時折、戸口の外を気にする。隣の家の戸の開け閉めの音、女たちの笑い声、子どもの泣き声、行商の鈴。お甲の高い声が遠くでひとつ弾み、すぐに消える。声は近づいてこない。今夜の練習は、外に漏れていない。漏れていないことが、ひとつの支えになる。
志乃は櫛を綾に渡し、「この人の髪を」と言う。綾は早太の後ろに回り、櫛を頭皮に軽く当て、櫛目を通す。櫛の歯が布と髪の境をなぞり、音は立たない。音を立てない手は、緊張の中でも美しい。櫛を置き、綾は早太の耳の後ろに指を置く。「ここが、耳たぶの付け根。刃の二の太刀は、ここへ向かう。いまは見ない。見ない訓練をする。見ないで型を保つ」
声の練習をもう一度。相槌を打つ場合の高さと間。自分の名を呼ばれたときの返事の柔らかさ。「あなたは、『はい』の形が硬い」と綾が言う。「硬い『はい』は拒みの『はい』に見える。拒むなら、目で。目で一度だけ、床のほうを見る。それで、『いまは受けない』という気配を伝える」
志乃は小袖の肩に縫い付けられた小さな当て布を指で押し、そこに小刀の重みが隠れる位置を試す。「大祭の日には白だけれど、形は同じ。袖の奥に隙を作って、刃が落ちないように」 布の内側に薄い鎖の片を忍ばせることまではしない。重くなる。重い形は、見破られる。軽く仕込む。重さは心で受ける。
綾は短い間だけ外に出て、井戸の水を小さな器に汲み、鼠色の布の端を濡らす。その布で早太の首筋を拭う。拭う動きは、女が女の身支度を整えるときの自然な手つきで、そこに親密が生まれるが、親密はけっして甘さではない。戦の前の静かな連帯だ。「あなたの首は熱い」と綾。「熱は、夜に見える。冷まして」 冷まされた首筋に鳥肌が立ち、次第に熱が奥へ引く。引いた熱の場所を、早太は体の地図に記す。
志乃は動きを止め、「座すとき、裾」と言う。綾が実際に座って見せ、裾を膝の上で整え、余計な皺を指で消す。早太も真似る。鼠色の布は皺が目立ちにくいが、白は違う。白は皺を見せる。皺は心を見せる。心は見せない。見せるのは型だ。
いくつかの動作が滑らかに連なるようになってくると、練習は難所へ移る。抱かれたときの「落とし」の再確認だ。綾は襟を取らず、背から両腕を回し、力を入れない抱え方で重さを渡す。渡された重さの中で、早太は体のある部分を空にし、別の部分に芯を立てる。芯は背の下のほう、腰の少し上、布の中で見えない柱のように置く。柱があると、体は壊れない。壊れない体は、刃を持てる。綾は彼の背に手を置き、「ここ、ここ」と呼吸の降り方を指で示す。「降りた息は、土へ逃がす。上に残さない。上に残ると、目が揺れる」
志乃は声を出さずに灯の芯をさらに短くし、油を少し足し、火が寝る姿勢を整える。火は寝ていても、消えない。消えない火は、夜に対するしつけのようなものだ。志乃の横顔は静かで、目の端の皺は深い。娘を送り出す支度を、他家の男に施すことの難しさが、皺の深みにわずかに宿る。それでも彼女は手を止めない。止めれば、夜が詰め寄る。
合図を重ね、歩幅を重ね、声の高さを重ね、何度も同じ道を往復するうち、時間は外の暗さと足並みを揃える。外からは犬の低い声が一度、川の水音は一定で、隣家の戸はもう閉じられ、行商の鈴は鳴らない。お甲の声も消え、村は夜へ沈む前の静けさを抱く。
志乃は鼠色の布を脱がせ、晒を解き、早太の肩を乾いた布で拭い、「今夜はここまで」と言う。声は淡い疲れを含むが、そこに敗北はない。「明日は白の下に着る肌着の合わせを試す。髪は今夜の位置を忘れないで。首筋に手をあてて、影の形を覚えておく」 綾は香袋を一つ差し出す。「米ぬかと塩の匂い。あなたの家の匂いと混ぜると、もっと良くなる。今夜は枕元に置いて。匂いは、心を戻す」
早太は深く頭を下げ、二人から受け取った型を胸にしまい、戸口まで下がる。志乃は戸口の陰で一瞬、彼の肩に手を置く。「あの子を……」と言いかけ、言葉を別の場所に置き直す。「自分を失くさないように」 その言葉の重さは、彼の背に穏やかに乗り、落ちずに残る。落ちない重みは、彼の芯の位置を確かにする。
外に出ると、夜はまだ浅い。空は群青の手前で、家々の影は濃く、土の匂いは昼より強い。早太は足袋の紐を確かめ、鼠色の布を丁寧に畳み、懐に収める。歩みは自然と小さくなり、肩は落ち、目は前より少し低い場所に収まる。練習はすでに体に残り、体はもう、別の歩き方を知っている。知ってしまった体は、忘れるのが難しい。忘れにくさは、明日のための資であり、同時に逃げ道を狭める網でもある。
家に戻れば、梁の影は同じだが、部屋の空気は少し違っている。香袋の匂いが薄く漂い、土間の湿りと混じる。彼は香袋を枕元に置き、横になり、胸に手を置く。晒はないが、呼吸の重心はさきほどの場所のまま残り、腹で息が動く。動く息が心を下へ引く。下へ引かれた心は、上のほうで風に煽られない。目を閉じる前に、喉の奥で小さく咳をする練習をもう一度。咳は合図だ。合図は声ではない。声は夜を呼ぶ。合図は仲間を呼ぶ。
その夜、遠くの道で、旅の僧の錫杖がわざと一度だけ鳴り、すぐに静まった。鈴の音は誰かの耳に残り、噂はそこから伸びる。村の内では灯が落ち、籠り屋の火は低く、白布の裾に通した麻の紐は綾の指先で位置を確かめられ、結び目は見えないところで静かに息をしている。明日の昼、太陽が高くなったころ、その紐は一度、役目を果たす。その前に、体は体のまま、眠りに落ちねばならない。眠りの底には、鼠色の布の手ざわりが残り、襟の重みが残り、母の指の温度が残り、綾の指の位置が残る。それらが残ることは、恐れを薄く包む布になる。布がなければ、恐れはむき出しの刃になる。むき出しの刃は、持てない。持てるのは、包まれた刃だけだ。包む布をようやく手に入れた夜だった。
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ここから後、第11章から第24章までと英語版「The Sacrificial Daughter:A Hayataro Legend Retelling」をお読みになりたい方はこちらをクリック。